人民民主党政権とソ連軍事介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:03 UTC 版)
「アフガニスタンの歴史」の記事における「人民民主党政権とソ連軍事介入」の解説
詳細は「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」を参照 社会主義政権のアフガニスタン民主共和国が誕生すると、ハルク派のヌール・ムハンマド・タラキーが大統領に就任。1979年2月にイラン革命が勃発。 1979年9月14日、ハフィーズッラー・アミーンによる再クーデターでタラキーが逮捕され(後に殺害された)、アミーンが大統領に就任した。アミーンが宗教弾圧を開始すると、これに反発したムジャーヒディーンが蜂起。鎮圧に手こずるアミーンがソ連へ介入を依頼した。11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こり、ソ連のブレジネフは、アフガニスタンのイスラム原理主義がイランに飛び火したと考え、ソ連国内へ飛び火することを恐れてソ連主導でムジャーヒディーン鎮圧を図った。1979年12月27日の嵐333号作戦でアミーンを暗殺し、12月29日にパルチャム派のバブラク・カールマルが革命評議会議長に擁立された。 12月24日にソ連軍がアフガニスタンに侵攻し、こうしてソ連軍対ムジャーヒディーンというアフガニスタン紛争が始まった。東西冷戦の最中でもあり、アメリカはソ連の南下政策と受け止め、パキスタン経由でムジャーヒディーンやハザーラ人に武器援助を行い、紛争は泥沼化した。 1986年5月4日、カールマルが失脚し、ムハンマド・ナジーブッラーが革命評議会議長に擁立された。
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