人民民主共和国成立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 20:58 UTC 版)
「プーミ・ウォンウィチット」の記事における「人民民主共和国成立後」の解説
1975年12月のラオス人民民主共和国の樹立後、プーミは第二副首相兼教育・スポーツ・宗教相に任命された。1982年4月、第3回党大会において政治局員に再選出。同年の内閣改造で、プーミは閣僚評議会副議長(副首相)の専任となり、教育・情報・文化の全般に責任を負った。 1986年10月29日、国家主席のスパーヌウォンが健康上の理由により職務を全うできなくなったため、プーミは国家主席代行に選出された。同年11月、第4回党大会において政治局員に再選出。1987年9月、ラオス国家建設戦線 (LFNC) 第2回全国大会において、スパヌーウォンに代わり議長代行に選出され、翌1988年10月、正式に議長に就任した。 1991年3月、第5回党大会において政治局員から退き、スパーヌウォンおよびシソンポン・ラワンサイとともに、党中央委員会顧問に就任した。同年8月15日、第2期第6回最高人民会議において国家主席代行を辞任した。 1994年1月7日、心臓疾患のためヴィエンチャンで死去した。
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