プーミ・ウォンウィチット
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プーミ・ウォンウィチット(Phoumi Vongvichit, 1909年4月6日 - 1994年1月7日)は、ラオスの政治家。ラオス内戦期における左派勢力パテート・ラーオ[1]の政治指導者であり、戦後はラオス人民民主共和国主席代行を務めた。
- ^ パテート・ラーオとは、元来、ラオス内戦期における左派勢力ネーオ・ラーオ・イサラ(自由ラオス戦線)およびネーオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)の戦術部隊を指すが、パテート・ラーオの呼称は1954年のジュネーブ協定において反ラオス王国政府の政党として用いられ、1965年にパテート・ラーオ軍がラオス人民解放軍と改称した後も、国際的メディアはラオスの解放運動をパテート・ラーオと呼び続け、ネーオ・ラーオ・ハクサートとパテート・ラーオと区別しなかった。ヴォーラペット(2010年)、16ページ。
- ^ プーミー(2010年)、50 - 51ページ。
- ^ プーミ知事と日本軍の協力については、青山(1995年)、41 - 45ページを参照。
- ^ プーミー(2010年)、81ページ。
- ^ プーミー(2010年)、110 - 111ページ。
- ^ ヴォーラペット(2010年)、35ページおよび同書296ページの年表。
- ^ スチュアート-フォックス(2010年)、297ページ、脚注104
- ^ (アジア・中東動向年報 1987年版)の9月11日付「カンボジア,ラオス重要日誌」において、「常任委員会議長にはプーミ・ボンビチト」とあるが、(アジア動向年報 1988年版)の10月18日付では、「議長にボンビチト大統領代行が就任していることを報道」とある。
- ^ Laos - Party Structure, 1994.
- 1 プーミ・ウォンウィチットとは
- 2 プーミ・ウォンウィチットの概要
- 3 参考文献
固有名詞の分類
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