ラオス内戦時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 20:58 UTC 版)
「プーミ・ウォンウィチット」の記事における「ラオス内戦時」の解説
1960年12月、ヴィエンチャンの戦いで中立派軍が右派軍に破れ、ジャール平原に後退すると、プーミは左派=中立派間の協力の手はずを整えた。1961年から翌年にかけて、彼はネーオ・ラーオ・ハクサート代表団を率いてラオス中立に関するジュネーヴ会議に臨み、連合政府の樹立で合意した。1962年6月23日、プーマ殿下を首班とする第2次連合政府が成立し、プーミは情報・宣伝・観光相として入閣した。1963年、中立派の指導者への政治的暗殺が続発し、内戦が再発。首都ヴィエンチャンの治安が悪化するにおよび、4月3日にはネーオ・ラーオ・ハクサート代表団の要員は首都から脱出し、連合政府は事実上崩壊状態となった。プーミも4月19日に首都を去り、ネーオ・ラーオ・ハクサートの支配地域であるカンカーイに移動した。翌年4月18日から19日にかけて、ヴィエンチャンにおいて右派によるクーデターが勃発し、プーマ首相およびスパーヌウォン以下の閣僚が逮捕された。クーデター自体は失敗に終わり、閣僚はまもなく釈放されたが、結局連合政府からネーオ・ラーオ・ハクサートは排除され、6月、ヴィエンチャンに残留していたネーオ・ラーオ・ハクサート閣僚はジャール平原に引き揚げた。 この時までにラオスは、アメリカ=北ベトナム間のベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)に引きずり込まれていた。続く十数年、プーミはウィエンサイの鍾乳洞における生活と、国際共産党会議における多彩なパテート・ラーオ代表団の指導との間で行き来した。彼は党政治局及びラオス愛国戦線の両方でその地位を維持し、第3次連合政府の樹立交渉で指導的役割を果たした。1972年2月、ラオス人民革命党(ラオス人民党より改称)第2回党大会において政治局員に再選出され、序列第4位となる。1974年4月5日、暫定国民連合政府(第3次連合政府)で副首相兼外相に就任した。
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