ヴィエンチャンの戦いとは? わかりやすく解説

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ヴィエンチャンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 23:24 UTC 版)

コン・レー」の記事における「ヴィエンチャンの戦い」の解説

しかし、右派のノーサワン国防相故郷サワンナケート逃れると、直ちコン・レークーデター対す抵抗開始したアメリカタイ支持得て8月15日には旧ソムサニット政権大多数21人の議員から成る「反クーデター委員会」を組織し戒厳令布告する8月23日プーマ首相がノーサワン将軍会談し一度はノーサワンを内相として入閣させる連立政府樹立合意した。しかし、コン・レーはノーサワンの入閣強く非難する声明発し、さらに9月1日にノーサワン暗殺計画情報もたらされたことで、将軍サワンナケート引き返し右派との衝突不可避となったコン・レー軍は緒戦においてはパラシュート部隊2個中をもってパークサン右派軍2個大隊退け、さらにサムヌア近郊パラシュート部隊投入して駐屯軍逃走させるなど、戦果挙げていた。 このような状況下、アメリカ中立派政府への援助停止して圧力をかけ、さらにノーサワン軍への援助強化した。これに対してプーマ首相左派パテート・ラーオとの交渉進めつつ、東側諸国接近することになる。10月7日にはソ連国交樹立し10月13日ソ連のアブラーモフ(ロシア語版新大使がヴィエンチャン着任10月27日からはソ連によるコン・レー軍への物資空輸開始された。 また11月1日プーマ首相ラオス政治的中立志向する全ての政党委員会その他の機関糾合するため、自らを議長とする「中立統一委員会」を結成しコン・レー副議長任命された。 そして11月22日、ついにコン・レー中立派軍とノーサワンの右派軍が本格的に衝突した。しかし、アメリカにより支援され重装備右派軍は、軽装備のコン・レー軍を蹴散らしヴィエンチャン向けて13号線英語版)を北上した右派軍が迫る直前12月8日ヴィエンチャン軍管区のクパシット・アパイ大佐によるクーデター未遂起き一時首都占領されたが、翌9日未明コン・レー軍はこれを退けた12月9日プーマ首相閣僚ヴィエンチャン脱出しカンボジア亡命した12月13日、ノーサワン軍がヴィエンチャンへの攻撃開始し三日三晩戦闘の後12月16日首都占領されコン・レー軍は北部へと撤退した

※この「ヴィエンチャンの戦い」の解説は、「コン・レー」の解説の一部です。
「ヴィエンチャンの戦い」を含む「コン・レー」の記事については、「コン・レー」の概要を参照ください。

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