ヴィエルコポルスカを巡る争い
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「ヘンリク3世 (グウォグフ公)」の記事における「ヴィエルコポルスカを巡る争い」の解説
1296年2月8日、前年にポーランド王として戴冠を終えたばかりだったヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世が暗殺された。ヴィエルコポルスカ=グウォグフ間の同盟は1293年頃には既に崩壊しており、プシェミスウ2世はクヤヴィ公ヴワディスワフ1世(短躯公)に接近していた。このため、ヴィエルコポルスカの貴族達はポズナンにおいて、プシェミスウ2世の後継者にヴワディスワフ1世を推戴しようとした。ところが、ヘンリク3世は1290年にプシェミスウ2世と交わした約定は現在でも有効なままだと考えており、自分こそがプシェミスウ2世の唯一の相続人だと主張した(プシェミスウ2世は3度も結婚していたが、一人娘リクサを授かっただけであった)。 ヘンリク3世とヴワディスワフ1世は3月10日にクシヴィンでヴィエルコポルスカを巡る論争に決着をつけた。これにより、ヘンリク3世が領有するのはオブラ川以南の地域のみとされたのである。同時にヴワディスワフ1世はヘンリク3世の長男ヘンリク4世をポズナンにおける相続人とし、もし自分が男子を残さずに死んだ場合は、このヘンリク4世がヴィエルコポルスカ全域を相続することをも取り決めた。 1296年の約定締結において、ヘンリク3世がヴワディスワフ1世に対して大幅に譲歩したのには理由があった。既にこの時、ヤヴォル公ボルコ1世との紛争を始めていたのである。ヘンリク3世がクシヴィンに滞在していた時、ボルコ1世はホイヌフとボレスワヴィエツを奪取した。ボヘミア王ヴァーツラフ2世の調停により、1297年3月にズヴァノヴィツェにおいて両者は和解した。ヘンリク3世はボルコ1世との和約を遵守し続けたが、前述の2都市に関しては返還させた。 1290年代末、ヘンリク3世はボヘミア王ヴァーツラフ2世との関係を改善させていった(例えば、1297年にプラハで行われたヴァーツラフ2世の戴冠式にも出席している)。反対にヴワディスワフ1世との関係は時が経つにつれて悪化していき、戦争に発展したが、1298年6月にコシチャンでヴワディスワフ1世と新たな同盟を結んだ(これにはヴロツワフ司教アンジェイ・ザレンバを筆頭とするヴィエルコポルスカの貴族達が反対していた)。 この条約は、ヘンリク3世は教会の承認を受けるのを条件に、未来の「王国」の大法官として、ヴィエルコポルスカ、東ポモジェのグダニスク地域、及び将来ポーランド王冠領となる全ての地域を完全に平定するために、「国王」ヴワディスワフ1世に援助を約束する、というものであった。当時、ポーランド諸公同士の争いはボヘミア王ヴァーツラフ2世の勢力伸長にうまく利用されていた。1299年8月23日にクレンカの村で条約が結ばれ、ヘンリク3世はヴィエルコポルスカに対する要求権を永久に放棄する、と誓約した。 ヘンリク3世はボヘミア王ヴァーツラフ2世による干渉を受け入れたが、それは当時自らの領国においてヴロツワフ司教ヤン・ロムカとの争いに忙しかったためである。紛争の原因はジャガン公国の帰属をめぐる問題だった。ジャガンは以前、ヘンリク3世の弟コンラト2世が領有していたが、コンラト2世がイタリアのアクイレイア司教に選任されたため、1299年3月にヘンリク3世が接収した。しかしコンラト2世が司教職を離れてジャガンに帰国した後も、不在時に同地域を支配していたヘンリク3世は弟に公国を返そうとはしなかった。家臣たちや教会の介入があった後も、ヘンリク3世はコンラト2世に公国返還を拒んだため、ここにきて司教ヤン・ロムカはヘンリク3世を破門し、コンラト2世への支持を表明した。両者の紛争は1300年4月24日にようやく終結し、司教側の勝利が確定して、コンラト2世はジャガン公に返り咲いた。 一方、1299年の条約にもかかわらず、ヘンリク3世はヴィエルコポルスカ地方に対する相続要求を取り下げる意思がなかった。1301年に「ポーランド王国の相続者、シロンスク、グウォグフ、ポズナンの公(dziedzic Królestwa Polskiego, książę Śląska, pan Głogowa i Poznania)」という称号を名乗ったからである。こうした野心は、ボヘミア王であり、今やポーランド王をも兼ねていたヴァーツラフ2世との軍事衝突につながっていった。ヘンリク3世を巡る身の危険は1301年、ヤヴォル公ボルコ1世が死ぬと同時に、ヴァーツラフ2世がレグニツァ公ヘンリク5世の遺児達の新たな後見人となったときに最も高まった。この微妙な緊張状態の中にもかかわらず戦争は勃発しなかったが、それはヴァーツラフ2世が息子ヴァーツラフ3世にハンガリー王位を確保することに集中していたためであった。 1305年にヴァーツラフ2世が急死し、ヴァーツラフ3世も翌1306年に毒殺、プシェミスル朝が断絶したことで、ヘンリク3世のヴィエルコポルスカ支配は実現に近づいた。また、1304年10月11日にコンラト2世が亡くなると同時に、ヘンリク3世は何の妨害もなくジャガン公国を取り戻し、グウォグフ公国を分割以前の状態に再統一出来たことも野心を後押しすることにつながった。 1306年の春、ヘンリク3世はついにヴィエルコポルスカ=クヤヴィの境目(コニン)とグダニスク(ポモジェ東部)まで進軍し、ヴワディスワフ1世を退却させた。カリシュはヘンリク3世の支配に抵抗したが、ヘンリク3世はこの地を支配していたレグニツァ公ボレスワフ3世(ヘンリク5世の長男かつヴァーツラフ2世の婿で、ヴァーツラフ2世の後継者を称していた)を追い出して1307年にはカリシュを掌握した。こうして、ヴィエルコポルスカ全域がヘンリク3世の支配下に置かれた。間もなく、ヘンリク3世はボヘミアの新国王インジフと同盟し、共同してボレスワフ3世の野心に対抗することを約束した。
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