ヴィエルコポルスカを巡る争いとは? わかりやすく解説

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ヴィエルコポルスカを巡る争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/29 22:03 UTC 版)

ヘンリク3世 (グウォグフ公)」の記事における「ヴィエルコポルスカを巡る争い」の解説

1296年2月8日前年ポーランド王として戴冠終えたばかりだったヴィエルコポルスカプシェミスウ2世暗殺された。ヴィエルコポルスカグウォグフ間の同盟1293年頃には既に崩壊しており、プシェミスウ2世はクヤヴィ公ヴワディスワフ1世短躯公)に接近していた。このためヴィエルコポルスカ貴族達はポズナンにおいて、プシェミスウ2世後継者ヴワディスワフ1世推戴しようとした。ところが、ヘンリク3世1290年プシェミスウ2世交わした約定は現在でも有効なままだと考えており、自分こそがプシェミスウ2世唯一の相続人だと主張したプシェミスウ2世3度結婚していたが、一人娘リクサ授かっただけであった)。 ヘンリク3世ヴワディスワフ1世3月10日にクシヴィンでヴィエルコポルスカを巡る論争決着をつけた。これにより、ヘンリク3世領有するのはオブラ川以南地域のみとされたのである同時にヴワディスワフ1世ヘンリク3世長男ヘンリク4世ポズナンにおける相続人とし、もし自分男子残さず死んだ場合は、このヘンリク4世ヴィエルコポルスカ全域相続することをも取り決めた1296年約定締結において、ヘンリク3世ヴワディスワフ1世に対して大幅に譲歩したのには理由があった。既にこの時、ヤヴォルボルコ1世との紛争始めていたのであるヘンリク3世がクシヴィンに滞在していた時、ボルコ1世はホイヌフとボレスワヴィエツ奪取したボヘミア王ヴァーツラフ2世調停により、1297年3月にズヴァノヴィツェにおいて両者和解したヘンリク3世ボルコ1世との和約遵守し続けたが、前述の2都市に関して返還させた。 1290年代末、ヘンリク3世ボヘミア王ヴァーツラフ2世との関係を改善させていった例えば、1297年プラハ行われたヴァーツラフ2世戴冠式にも出席している)。反対にヴワディスワフ1世との関係は時が経つにつれて悪化していき、戦争発展したが、1298年6月にコシチャンでヴワディスワフ1世新たな同盟結んだ(これにはヴロツワフ司教アンジェイ・ザレンバを筆頭とするヴィエルコポルスカ貴族達が反対していた)。 この条約は、ヘンリク3世教会承認を受けるのを条件に、未来の「王国」の大法官として、ヴィエルコポルスカ、東ポモジェのグダニスク地域、及び将来ポーランド王冠領となる全ての地域を完全に平定するために、「国王ヴワディスワフ1世援助約束する、というものであった当時ポーランド諸公同士争いボヘミア王ヴァーツラフ2世勢力伸長にうまく利用されていた。1299年8月23日にクレンカの条約結ばれヘンリク3世ヴィエルコポルスカ対す要求永久に放棄する、と誓約したヘンリク3世ボヘミア王ヴァーツラフ2世による干渉受け入れたが、それは当時自らの領国においてヴロツワフ司教ヤン・ロムカとの争い忙しかったためである。紛争の原因ジャガン公国帰属をめぐる問題だった。ジャガン以前ヘンリク3世の弟コンラト2世領有していたが、コンラト2世イタリアアクイレイア司教選任されたため、1299年3月ヘンリク3世接収した。しかしコンラト2世司教職離れてジャガン帰国した後も、不在時に同地域を支配していたヘンリク3世は弟に公国返そうとはしなかった。家臣たちや教会介入があった後も、ヘンリク3世はコンラト2世公国返還拒んだため、ここにきて司教ヤン・ロムカはヘンリク3世破門し、コンラト2世への支持表明した両者紛争1300年4月24日にようやく終結し司教側の勝利確定して、コンラト2世ジャガン公に返り咲いた一方1299年条約にもかかわらずヘンリク3世ヴィエルコポルスカ地方対す相続要求取り下げる意思がなかった。1301年に「ポーランド王国相続者シロンスクグウォグフポズナンの公(dziedzic Królestwa Polskiego, książę Śląska, pan Głogowa i Poznania)」という称号名乗ったからである。こうした野心は、ボヘミア王であり、今やポーランド王をも兼ねていたヴァーツラフ2世との軍事衝突つながっていった。ヘンリク3世を巡る身の危険1301年ヤヴォルボルコ1世が死ぬと同時にヴァーツラフ2世レグニツァ公ヘンリク5世遺児達の新たな後見人となったときに最も高まった。この微妙な緊張状態中にもかかわらず戦争勃発しなかったが、それはヴァーツラフ2世息子ヴァーツラフ3世ハンガリー王位を確保することに集中していたためであった1305年ヴァーツラフ2世急死しヴァーツラフ3世も翌1306年毒殺プシェミスル朝断絶したことで、ヘンリク3世ヴィエルコポルスカ支配実現に近づいた。また、1304年10月11日にコンラト2世亡くなると同時にヘンリク3世何の妨害もなくジャガン公国取り戻しグウォグフ公国分割以前の状態に再統一出来たことも野心後押しすることにつながった1306年の春、ヘンリク3世はついにヴィエルコポルスカ=クヤヴィの境目(コニン)とグダニスク(ポモジェ東部)まで進軍しヴワディスワフ1世退却させた。カリシュヘンリク3世支配抵抗したが、ヘンリク3世はこの地を支配していたレグニツァ公ボレスワフ3世ヘンリク5世長男かつヴァーツラフ2世の婿で、ヴァーツラフ2世後継者称していた)を追い出して1307年にはカリシュ掌握した。こうして、ヴィエルコポルスカ全域ヘンリク3世支配下置かれた。間もなくヘンリク3世ボヘミア新国王インジフと同盟し共同してボレスワフ3世野心対抗することを約束した

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