ラオス人民民主共和国の成立
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「ラオスの歴史」の記事における「ラオス人民民主共和国の成立」の解説
ラオス王国からラオス人民民主共和国への移行はさして大きな衝突は発生することなく粛々と行われたことから、「静かな革命」とも呼ばれる。しかし実際にはラオス人民民主共和国成立から2-3年はラオスの経済および行政は混乱状態に陥り、麻痺していた。これは先行きを不安視した閣僚、富豪層やタイ人や華僑などの国外逃亡が相次いだ事に起因している。統計によれば1974年ヴィエンチャンに居住していたタイ人、華僑は各々5万人程度とされているが、1978年には各々7000〜8000人となり、顕著に現れている。加えてタイによる国境封鎖と、アメリカをはじめとする先進国の援助打ち切りと農業の大凶作が重なり、国内は深刻な物資不足に苛まれた。 政府はこれらの状況を打破するため、1976年からヴィエンチャン及びルアンパバーンへの国営商店の開設、物資の退蔵や価格操作を禁止する法案の成立、配給制度の実施など、次々と対策を打ち立てていった。同年6月15日には通貨改革を実施し、経済状況は徐々にではあるが改善の兆しを見せていった。1977年にはベトナムとの間に「ラオス・ベトナム友好協力条約」が締結され、ベトナムより国家建設に必要な資金援助や文化・教育・技術などに関する専門家派遣が受けられる体制が整えられた。同時にソビエト連邦や中国との関係強化にも着手し、カイソーン書記長などが頻繁にモスクワや北京へ訪問、会談を実施し両国間の全面協力体制樹立に向けての共同声明を発表するなどの成果を挙げている。 1979年からはさらなる経済活性化を求め、「新経済政策」が閣議決定された。これは自由主義経済原理の導入を目的とした政策で、実施に先立ち、キープ貨幣の100対1というデノミネーションが実施され、インフレーションの抑制を行った。新経済政策の効果は覿面で、1980年にはラオスの米の生産量が初めて100万トンを突破した。 1980年6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生したことより外交努力により解除へ動きつつあった国境封鎖に対して再び歯止めがかかることとなった。加えて1984年にはラオスのサイニャブリー県とタイのウッタラディット県の狭間に位置するラオス領の三つの村をタイ国軍が不法に占拠していると発表し、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイ政府は同年10月14日国軍が撤兵した旨の声明を発表し、騒動はいったん沈静化したが、1987年に再び国境付近で両軍が衝突し、戦闘状態に陥った。本件は1988年に両国代表団による和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた。
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