ラオス人民民主共和国の成立とは? わかりやすく解説

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ラオス人民民主共和国の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:56 UTC 版)

ラオスの歴史」の記事における「ラオス人民民主共和国の成立」の解説

ラオス王国からラオス人民民主共和国への移行はさして大きな衝突発生することなく粛々と行われたことから、「静かな革命」とも呼ばれる。しかし実際にラオス人民民主共和国成立から2-3年ラオス経済および行政混乱状態に陥り、麻痺していた。これは先行き不安視した閣僚富豪層タイ人華僑などの国外逃亡相次いだ事に起因している。統計によれば1974年ヴィエンチャン居住していたタイ人華僑各々5万程度とされているが、1978年には各々70008000人となり顕著に現れている。加えてタイによる国境封鎖と、アメリカはじめとする先進国援助打ち切り農業大凶作が重なり国内深刻な物資不足に苛まれた。 政府はこれらの状況打破するため、1976年からヴィエンチャン及びルアンパバーンへの国営商店開設物資退蔵価格操作禁止する法案の成立配給制度実施など、次々と対策打ち立てていった同年6月15日には通貨改革実施し経済状況徐々にではあるが改善兆し見せていった。1977年にはベトナムとの間に「ラオス・ベトナム友好協力条約」が締結されベトナムより国家建設必要な資金援助文化・教育技術などに関する専門家派遣受けられる体制整えられた。同時にソビエト連邦中国との関係強化にも着手し、カイソーン書記長などが頻繁にモスクワ北京訪問会談実施し両国間の全面協力体制樹立向けて共同声明発表するなどの成果挙げている。 1979年からはさらなる経済活性化求め、「新経済政策」が閣議決定された。これは自由主義経済原理導入目的とした政策で、実施先立ちキープ貨幣100対1というデノミネーション実施されインフレーション抑制行った新経済政策効果覿面で、1980年にはラオス米の生産量が初め100万トン突破した1980年6月14日メコン川挟んだタイ・ラオス国境警備隊の間にて銃撃事件発生したことより外交努力により解除動きつつあった国境封鎖に対して再び歯止めがかかることとなった加えて1984年にはラオスサイニャブリー県タイウッタラディット県狭間位置するラオス領の三つタイ国軍が不法に占拠していると発表し領土権を巡る国境紛争勃発した三村事件)。タイ政府同年10月14日国軍撤兵した旨の声明発表し騒動はいったん沈静化したが、1987年に再び国境付近両軍衝突し戦闘状態に陥った本件1988年両国代表団による和平交渉実施され停戦協定結ばれた

※この「ラオス人民民主共和国の成立」の解説は、「ラオスの歴史」の解説の一部です。
「ラオス人民民主共和国の成立」を含む「ラオスの歴史」の記事については、「ラオスの歴史」の概要を参照ください。

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