内戦と消滅とは? わかりやすく解説

内戦と消滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 00:07 UTC 版)

ラオス王国」の記事における「内戦と消滅」の解説

ネオ・ラーオ・イサラは、ラオス北東部サムヌア省を臨時抗戦政府拠点とし、ベトミンとの連携下でラオス北部をほぼ支配したまた、ボロベン高原中心とするアッタプーサーラワンなど南部でも、現地少数民族族長であるシートン・コマダンらのパテート・ラーオ指導者らが長く抗戦した1954年ジュネーヴ協定ラオス条項により、外国軍ラオスから撤退したパテート・ラーオは、自由選挙確約を得るかわりに中南部10省から撤収し北部2省に集結させられ国際休戦監視委員会が停戦監視のために設置された。これにより、長年亘るフランスラオス侵略終止符打たれた。しかし、インドシナ半島におけるフランスの影響力が低下すると、代わって1955年から王国政府軍事援助始めアメリカの影響力が増大した1956年8月中立派スワンナ・プーマ親王首相に就任右派内閣組閣した。1957年11月プーマ首相異母兄弟パテート・ラーオ1956年にネオ・ラーオ・イサラを改称議長スパーヌウォン親王は、第1次連合政府組織することに同意した1957年12月には北部2省の行政権王国返還されパテート・ラーオ軍隊王国軍編入された。1958年5月にはパテート・ラーオ初め参加して補欠選挙が行われた。議席争われ21議席のうち9議席と4議席パテート・ラーオとその同盟党の平和中立党獲得し左派優勢明らかになった。また、スパーヌウォン候補者トップ得票得た。これはパテート・ラーオ参加した唯一の選挙となった。 これに危機感持った右派勢力内閣総辞職1958年8月、プイ・サナニコーンが親米的右派単独政権組織パテート・ラーオ指導者逮捕投獄した。やがて王国軍編入されパテート・ラーオ兵士らが武器持って集団脱走するという事態にいたり、王国軍との闘争開始した当時閣僚チャンパサク大臣によると1960年初、反乱軍が最もはびこっていた地域は、ラオス南部パークセーボロベン高原アッタプー、ヒャファイ高原周辺だった。 1960年8月に第2パラシュート大隊コン・レー大尉が、右派政権対すクーデター起こして首都ヴィエンチャン制圧したその後第二次プーマ内閣成立した。しかし、プーマ首相連合政府中にパテート・ラーオ取り込もうしたため結果的にアメリカ支持する右派軍の反乱招き1960年12月にはカンボジア亡命したその後反共主義ブン・ウム親王首相に就任したが、1961年半ばには、コン・レー派と手を結んだパテート・ラーオが、国土大半支配した同年5月ラオス内戦拡大懸念したアメリカソ連イギリス呼びかけで、左派中立派右派の3派は停戦し、ラオスに関する14国会議がジュネーヴ開かれた。そして、1962年6月ジャール平原協定によってプーマ首相のもと第2次連合政府成立同年7月にはラオス中立外国軍撤退定めたジュネーブ協定国際的に認められた。 しかし、その後対立続いた要人暗殺機に中立派政治勢力弱体化し1964年5月には、プーマ首相のもと右派内閣組閣された。パテート・ラーオはこれをジュネーブ協定違反としてプーマ内閣認めず1965年には政府軍との間で再び公然と戦闘始まった1960年代半ばベトナム戦争激化しソ連パテート・ラーオを、アメリカ右派勢力支援したことから、ラオス内戦東西冷戦反映した代理戦争様相を示すようになった北ベトナム軍は、南ベトナムで戦う兵員物資補充路として、ラオス東南部存在するジャングル小道ホーチミン・ルート)を利用した1968年北爆停止されるアメリカ軍ラオス国内爆撃目標転換パテート・ラーオ支配地域人口密集地域においても激し空爆が行われるようになったひと月1.7~2.7回の出撃1日800回もの空爆が行われた。1969年には北ベトナムおよびナチ占領下欧州戦線投下され爆弾量を上回る猛爆となった。この空爆により70万人上の国内難民発生し35万人犠牲となったその後爆撃使用されクラスター爆弾多く不発弾化して田畑村落部に散在し生命への損害土地利用妨げ撤去費用の負担などが深刻な問題となっている。 1971年2月南ベトナム軍ホーチミンルート切断のためラオス南部侵攻したが、北ベトナム軍パテート・ラーオにより撃退され敗退した同年末、パテート・ラーオ中立派軍が軍事的優勢となった1972年10月からヴィエンチャン和平会談開かれ1973年に平和回復民族和合に関する協定ラオスにおける平和の回復及び民族和解に関する協定)が調印された。王国政府パテート・ラーオ解体され合同での暫定国民連合政府1974年4月設立第3次連合政府)、プーマ首相となった1975年4月カンボジアベトナム革命勢力勝利した5月1日には首都ビエンチャン住民2万規模大規模な右派デモ起こり鉾先向けられ右派閣僚5名が辞職高級官僚軍人・警察官の相当数辞職または国外逃亡した。5月21日には現地職員学生デモ隊米国国際開発局ビル占拠暫定政府閉鎖示唆すると、アメリカ政府5月27日ラオスからの撤収同意した。 こうして暫定国民連合政府により12月1日全国人民代表会議で、王制廃止連合政府解体共和制移行宣言された。スパーヌウォン高人議会議長兼国家主席を元首とするラオス人民民主共和国の成立宣言した。後に国王皇太子捕らえられ、「再教育という名の政治犯収容所投獄され、そこで没した。旧政府関係者や8万人を超す在ビエンチャン華僑タイ人をはじめ1975年以降20万人余が国外流出した

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