内戦の泥沼化
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これ以降、国際社会の内戦介入失敗を経て、内戦の対立は宗派を超えて細分化していく。ヒズボラは政治的な理由に基づく外国人誘拐を繰り返し、内戦終結まで続ける事となった。この連続誘拐はアメリカを初め各国の怒りを買い、一時は再び多国籍軍によるレバノン攻撃が計画された程であった。1980年代後半に政府が実質的な支配においていたのは電話のみであり、唯一機能していた政府機関は中央銀行であったという逸話まである。多国籍軍による再建が失敗した国軍は宗派・地域ごとに再び分化された。キリスト教徒の将兵で占められている東ベイルート周辺の陸軍部隊や海空軍を除くと、ムスリム主体の部隊はアマルなど民兵組織の指揮下にある有様であった。それでも国軍は形式的には存続し、予算配分と装備供与のみは律儀に続けられた(しかし、その多くは民兵組織に横流しされた)。だが、国軍は後述の「解放戦争」が勃発するまでは、再び内戦への介入に消極的となった。 イスラエル、アメリカなどが後退した状況下で、シリアは自国を軸とする内戦終結を目論んだ。1984年3月にはローザンヌにおいて民兵組織指導者を集めた「国民和解会議」を主催、9月にはレバノン憲法起草委員会を召集して改憲案を提出させるが、いずれもレバノン政府の存在を無視した事、現実的な利権を無視した事などから成功しなかった。 産業は内戦によって壊滅状態となったが、各民兵組織は群雄割拠の無政府状態を利用して、ベッカー高原を中心に麻薬産業を発達させていく。キリスト教徒とムスリムはあらゆる場面で対立したが、麻薬産業のみ生産はムスリム、密売はキリスト教徒という奇妙な「役割分担」が成されていたという。さらに各派民兵組織は支配地域で「税金」と称して様々な金銭を住民から徴収していた。例えば、国内のあらゆる場所に設置された民兵組織の「検問」は、「交通税」を徴収する貴重な資金源であった。また、石油にしても政府が設定した石油税とは別に、民兵組織が独自に石油税を設定して上乗せし、実際には政府の石油税も民兵組織が資金源としていた。どのような宗派の国民であれ、その社会で出世したいのであれば民兵組織に入らなくてはならない、というのが暗黙のルールになっていた。 1980年中盤以降はこうした現実的な利権を巡って、各民兵組織が泥沼の紛争に突入していく。ときには同じ宗派内においてさえ対立が発生した。内戦の長期化は、主義主張の争いから利権の争いに変質させた。マロン派においても、ファランヘ党のような伝統的親シリア派とは別に、自分達の身分を保証するのであれば親シリアでもかまわないという現実路線が生まれてきた。反シリア派であるLFでも、ホベイカの様にシリア支持に乗り出す幹部が現われてきた。パレスチナ難民虐殺事件の中心的人物ともいわれる彼を、シリアは特にマロン派の切り崩しのために利用しようとしたが、反シリア派の若手指導者であるサミール・ジャアジャア(英語版)との権力闘争に敗れ、ホベイカはシリアの庇護を求めてベッカー高原に逃亡した。 イスラエル侵攻後、半ば撤退していたシリア軍は治安維持を名目に再進出し、PLOも多くがレバノンに舞い戻ってきた。しかし、シリアにとってPLOは邪魔な存在であり、1986年には再進出したシリア軍とアマルによるパレスチナ難民キャンプへの攻撃が行われた。なかでもPLO支持の難民キャンプを包囲し、アマルはキャンプに対する飢餓作戦と執拗な銃砲撃を加えたため、多数のパレスチナ難民が死傷する事となった(キャンプ戦争(英語版))。また、世俗主義であるアマルと原理主義のヒズボラ、ドゥルーズ派とアマルなど、ムスリム左派において内紛が頻発し、その都度シリア軍が沈静化に乗り出した。 このような中、国軍の中からシリア排除を要求するミシェル・アウン陸軍大将が台頭してきた。彼の考えは、統一されたレバノン国家を誕生させる事にあり、具体的にはレバノン社会からの宗派主義の排除、民兵組織解体による中央集権政府・軍の樹立、シリア・PLO排除によって外国から主権を取り戻すというものであった(イスラエルに対する姿勢ははっきりとさせていなかったが、後述の解放戦争においてはイスラエルの軍事介入を拒否している。なお、2006年時点で、アウンは有力な野党指導者としてアマル・ヒズボラと協力関係を結んでいる。2016年10月にレバノン共和国大統領に就任)。ホベイカ逃亡後、LFの指導者となったジャアジャアはアウン率いる国軍に急接近していき、再び反シリアを強めていった。アウン・LF連合軍には、シリアと対立するイラクが支援に乗り出し、イラン・イラク戦争の終結で余剰となった武器弾薬や車両を提供した。
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内戦の泥沼化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/18 14:16 UTC 版)
1900年5月25日、パロネグロの戦いで自由党軍は国民党軍に大敗。自由党軍は正規戦を断念しゲリラ戦に転換、さらに2年にわたり抵抗を続けた。保守党による自由党員弾圧が強化され、自由党ゲリラの反撃で多くの人命が失われた。 7月31日、内戦の政治的解決を図る保守党伝統派(historicos)のホルヘ・モヤ・バスケス将軍がクーデターでサンクレメンテ大統領を追放し、後任に副大統領のマロキンを据える。マロキンはいっさいの交渉を拒否、その後徹底弾圧に方針転換。 1901年11月20日、アメリカ政府は国益保護のためコロンビアに軍事干渉。 1902年6月12日、内戦の軍事解決を断念した保守党政権は自由党との和解に乗り出す。自由党員への恩赦、自由選挙、政治・財政改革を約束。 11月21日、コロンビア政府と自由党が米艦ウィスコンシンで和平協定に署名。協定に基づき、自由党指導者は投降。内戦による死者は75,000人とも150,000人とも言われる。
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