内戦の背景とは? わかりやすく解説

内戦の背景 (1941年 - 1944年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 04:42 UTC 版)

ギリシャ内戦」の記事における「内戦の背景 (1941年 - 1944年)」の解説

内戦原因は、ドイツおよびその同盟国であるイタリアブルガリアによるギリシャ占領期さかのぼる。ドイツバルカン半島侵攻開始されると、国王ゲオルギオス2世および政府エジプト逃れ亡命政府組織したイギリス政府は、ギリシャ国民から広い支持得られるよう、亡命政府には中道派政治家用いるように要請した。しかし占領下ギリシャ生活する国民にとって、この亡命政府あまりに遠い存在だった。一方ギリシャ本土左派レジスタンスは、亡命政府イオアニス・メタクサス将軍による独裁政府流れを汲んでいたことから亡命政府非合法だ批判していた。カイロ亡命政府は、占領下にあるギリシャ対し何の影響力行使することができず、国民の間にはその無能力さが印象付けられていた。 ドイツ軍ギリシャ人協力者利用してアテネ傀儡政府樹立したが、この政府正統性国民の支持有してはいなかった。ドイツによる経済的収奪によりインフレ激しくなり、物不足や飢餓発生していた。傀儡政府ドイツ軍から受け取った装備軍隊組織さえした。この部隊1944年時点14,000人ほど)は連合国に対してではなく共産主義ゲリラとの戦闘駆り出された。 ギリシャにおける権力の空白を衝いて、いくつかのレジスタンス運動占領直後から動き始めていた。それらのうち最も大規模な組織である民族解放戦線英語版) (Εθηνικό Απελευθερωτικό Μέτωπο, EAM) は1941年創設された。民族解放戦線とその軍事組織であるギリシャ人解放軍英語版) (Εθνικός Λαϊκός Απελευθερωτικός Στράτος, ELAS) はギリシャ共産党 (Κομμουνιστικό Κόμμα Ελλάδας, KKE) により組織されており、当初はギオルギオス・シアントス(英語版)により指導されていた。 これらの組織ソ連による支援加え共産主義者ではない一般市民からも広い支持集めることに成功したギリシャ共産党指導によって、組織は反王党派色をも帯びようになったフロリナ地域においてはスラヴマケドニア組織 (Slavo-Macedonian organization, SMO) 、後のスラヴマケドニア自由軍 (Slavo-Macedonian liberation army SNOF) が組織されていた。 その他にギリシャ共産党対立する立場から、別のレジスタンス組織ギリシャ民族共和同盟英語版) (Εθνικός Δημοκρατικός Ελληνικός Σύνδεσμος, EDES) や国民社会解放運動英語版) (Εθνική και Κοινωνική Απελευθέρωσις, EKKA) はが結成され、これらの組織民族解放戦線ギリシャ人解放軍対立することになる。 初期レジスタンスは、ドイツブルガリアギリシャ一部占領許可したことに対す民衆デモ機会に、ギリシャ領マケドニア始まった急峻な山岳地帯が多いギリシャは、ゲリラ活動絶好舞台だった。1943年になると、ドイツ軍ギリシャ人協力者たち掌握しているのは都市部とそれらを結ぶ道路のみで、1歩外に出れば山岳地帯はほぼレジスタンス支配下にあった1943年にはギリシャ人解放軍20,000人の構成要員集めペロポネソス半島クレタ島・テッサリア・ギリシャ領マケドニア山岳地帯支配していた。ギリシャ民族共和同盟は5,000名のゲリラ擁しイピロス周辺掌握国民社会解放運動には1,000人のゲリラ存在した枢軸国側対するどんな支援欲していたイギリス当初イデオロギーに関係なく全てのレジスタンス資金装備面で支援行っていた。しかし、1943年イタリア連合国降伏した際にギリシャ駐留イタリア軍部隊装備接収したギリシャ人解放軍自前装備補給行えようになったギリシャには右派組織アテネのX(ヒー)・マケドニアPAOなども存在していた。実際のところギリシャレジスタンス組織は、相互に非難繰り返し隠れて協定を結びを繰り返していた。組織間の関係は不安定極め、"敵の敵は必ずしも味方ならず、しかし補給足しにはなり得る"といった状況だった。 民族解放戦線レジスタンス最大組織で、傀儡政府民兵部隊と戦う傍ら他のレジスタンスとも反目しあっていた。民族解放戦線は、ギリシャ民族共和同盟ドイツ共謀しているとの非難繰り返した民族解放戦線同盟国陣営ギリシャ通して南ヨーロッパ一帯支配企んでいると考えており、そのためにドイツ撤退に際してギリシャでの独占的権力をつかむために他のレジスタンス追い落とそうとしていた。このようにしてギリシャ人解放軍ギリシャ民族共和同盟ドイツ軍による三つ巴の関係が生まれたイギリスカイロ亡命政府ギリシャ民族共和同盟支援し対立内戦様相呈してきた。ついに1943年10月ギリシャ人解放軍ギリシャ民族共和同盟対す攻撃開始しギリシャ国全域内戦勃発した内戦1944年2月イギリスによる仲裁プラカ協定が行われるまで続いた1944年3月ギリシャ大部分支配下においていた民族解放戦線国民解放政治委員会英語版) (Politiki Epitropi Ethnikis Apelevtheroseos, PEEA) を組織しアテネ傀儡政府カイロ亡命政府対抗する第三政府用意した。その目的は「全国土の解放国家の独立統一堅持し、国内ファシスト勢力独裁者殲滅計るため、占領者に対す抵抗強化すること」であった国民解放政治委員会初代議長には国民社会解放運動の指導者であったエウリピディス・バキルトジス(英語版)が就いた国民解放政治委員会による注意深く決定され穏健な綱領に対して亡命ギリシャ人の間でも支持の声が広がっていた。1944年4月にはエジプト組織されていたギリシャ軍王党派政府に対して国民解放政治委員会綱領基づいた統一政府作るべきだと要求しクーデター騒ぎ起こした1944年5月全ての政治的組織代表者レバノン集まり戦後政権について討議する場が設けられた。民族解放戦線他の組織対す対決姿勢を崩さなかったが、ソ連ギリシャ共産党同盟国結束損なうような行動を慎むように命令したため、会議成功終わった合意では、亡命政権首相務めていたゲオルギス・パパンドレウのもとで統一政府作り民族解放戦線には4分の1閣僚ポスト配分されることになったドイツによるギリシャ占領期抗争激しさを増す一方で問題解決する余地はほとんど存在しなかった。どのレジスタンス組織ドイツへ協力者を疑うあまり、多く焼き市民処刑したギリシャ共産党によると、「ヒーのような対独協力者テロリズム効果的に利用しているが、ギリシャ人解放軍では頭に血がのぼったリーダーたちが度を超しているだけだ」となる。国民社会解放運動指導者プサロス(英語版)も、「彼の将校対独協力者であると立証された」とギリシャ共産党決めつけられギリシャ人解放軍全てのコミュニスト抵抗組織攻撃後のみに活動強要された」として1944年4月17日処刑されてしまった。

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