内戦と戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:22 UTC 版)
「ルキウス・アフラニウス」の記事における「内戦と戦死」の解説
ポンペイウスとカエサルの対立が内戦に発展した頃(紀元前49年1月)、アフラニウスはヒスパニア・キテリオルで3個軍団を指揮していた。ポンペイウスの支持者たちはヒスパニア軍に大きな期待を寄せていた。2月には、アフラニウスがピレネー山脈でカエサルの将軍の一人であるガイウス・トレボニウスを破ったという噂がローマで広まった。実際には、アフラニウスは攻撃的な行動を計画していなかった。彼はルシタニア(アフラニウスが最高指揮権を握っていた)を支配していたマルクス・ペトレイウスと合流し、イレルダの街の近くに強力な防御陣地を確保した。紀元前49年6月には、ポンペイウス派とカエサル軍が激突したが、カエサルは既にイタリアを占領し、ポンペイウスをバルカン半島に追いやっていた。 アフラニウスとペトレイウスは、ローマ正規軍5個軍団、アウクシリア(補助兵)80個コホルス(約48,000)、騎兵5,000を有していた。一方カエサルは6個軍団、アウクシリア5,000人、騎兵6,000であった。カエサル軍の兵士は数では劣るが経験豊富であり、さらにポンペイウス派は内陸部への撤退を行わないという過ちを犯した。イレルダの戦いが始まったが、現地部族が次々にカエサル側に寝返ったことを知り、アフラニウスとペトレイウスはケルティベリアへの撤退を決定した。しかしカエサル軍に包囲され、アフラにウスは降伏に同意した。出された唯一の条件は全軍の解散であった。 しかしアフラニウス自身は戦いを止めようとはしなかった。彼は東へ行き、エピロスのデュッラキウムでポンペイウスと合流した。このときヒスパニア兵のコホルスを何個か率いていた。ポンペイウス派の重鎮達は、イレルダでの降伏を反逆罪であるとして、アフラニウスを非難した。デュッラキウムの戦いでポンペイウス軍が勝利した後、アフラニウスはポンペイウスに対して、一旦イタリアに戻り、強力な艦隊でバルカン半島のカエサル軍を封鎖し、撃破するように助言したが、ポンペイウスははこの計画を受け入れなかった。結局ポンペイウスはそのままカエサルを追撃し、ファルサルスの戦いが起こる。このときアフラニウスは野営地を守る軍を指揮したが、戦いはカエサルの勝利に終わった。敗北後、アフラニウスはカエサルの慈悲に頼ることができないと考え、マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスと共にデュッラキウムに逃れ、さらにアフリカ属州に逃れ 、そこでクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカクイントゥス・セシリウス・メテルス・スキピオの指揮下で戦いを続けた。 アフラニウスはタプススの戦いに加わるが、ポンペイウス派は再び敗北した(紀元前46年4月)。その後、彼はファウストゥス・コルネリウス・スッラとともに、マウレタニアを通ってヒスパニアに向かい、そこで古い支持者を集めることを決意した。しかし、彼の2,500人の分遣隊は、カエサル派のプブリウス・シッティウスの待ち伏せに遭い、ほぼ全滅した。アフラニウスは捕らえられた。数日後、兵士の反乱が起こり、アフラニウスはスッラと共に殺された。スエトニウスとフロルスは、これはカエサルの命令によって行われた処刑であったと主張している 。
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