スエトニウスとは? わかりやすく解説

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スエトニウス【Gaius Suetonius Tranquillus】


スエトニウス

名前 Suetonius

ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス

(スエトニウス から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/24 18:49 UTC 版)

スエトニウス

ガイウス・スエトニウス・トランクィッルスラテン語: Gaius Suetonius Tranquillus, 70年頃 - 140年頃)は、ローマ帝国五賢帝時代歴史家政治家である。

終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルおよび帝政ローマ初代皇帝アウグストゥスからドミティアヌスまでの11名のローマ皇帝、計12名の伝記である『皇帝伝英語版ラテン語: De vita Caesarum)』の著者として知られる[1]

経歴

ガイウス・スエトニウス・トランクィッルスは、ヒッポ・レギウス(現:アンナバ)出身とされるスエトニウス・ラエトゥスの子として産まれた。ラエトゥスはエクィテスに属しており、内戦時期はオト帝の下で、ゲルマニア・スペリオル属州総督であったアウルス・ウィテッリウスとのベドリアクムの戦い(69年)にも従軍した。

スエトニウスは元老院議員で歴史家であった小プリニウスとも親しかった。プリニウスはスエトニウスを物静かで勤勉であり、文筆に一身を捧げた人物と書き残している。小プリニウスはスエトニウスがイタリアの小規模な不動産を購入、そして未婚ないし子のいなかったスエトニウスにも免税の特権(通常3人の子の父親には認められた)を認めさせるようトラヤヌス帝との間を取り持つなど協力をしている。小プリニウスを通じてスエトニウスはトラヤヌスやハドリアヌスとも親しくなった。

また、スエトニウスは110年から112年まで小プリニウスがビテュニア及びポントス両属州のプロコンスルとして赴任した際に随行している。トラヤヌスの治世時には何らかの秘書官と公文書館の監督業務に携わっていたようである。

112年、スエトニウスはハドリアヌスより皇妃ウィビア・サビナ(en)に対する不敬な態度を咎められて解任される。スエトニウスの解任はハドリアヌスの行政改革を反映したものではないかと現在の解釈では考えられるので、再びハドリアヌスに用いられるようになった可能性はある。しかしながら122年以降、スエトニウスが再び職務に就いたという記録は残ってはいない。

「皇帝伝」

1540年にフランスで出版された『皇帝伝』の1ページ

スエトニウスは、「皇帝伝」(ラテン語原題:De vita Caesarum)の著者として広く記憶されている。皇帝伝はユリウス・カエサル、アウグストゥス、ティベリウスカリグラクラウディウスネロガルバオトウィテッリウスウェスパシアヌスティトゥスおよびドミティアヌスの伝記が含まれている。ただしカエサルについては始めの何章かが失われている。皇帝伝はおそらくはハドリアヌスの治世に書かれたものと思われ、スエトニウス本人の友人であり、119年プラエフェクトゥス・プラエトリオであったガイウス・セプティキウス・クラルス(Gaius Septicius Clarus)に献呈されている。

この書物は、これらの諸帝を一定の様式で伝えている。すなわち、風貌の描写、前兆、系譜、引用、そしてその後にどの皇帝についても一貫した順序での経歴、事績を述べるに至る。スエトニウスは公共の備えのために蓄財した皇帝を「貪欲」とみなしたが、これは平均的なローマの中流階級の態度を反映したものであるかもしれない。

日本語訳

  • スエトニウス『ローマ皇帝伝』 国原吉之助訳、岩波文庫(上下)、1986 
  • スウェートーニウス『ローマ皇帝伝 カエサル・アウグストゥス・ティベリウス』 角南一郎訳、現代思潮社「古典文庫」、1984。前半部のみの重訳

脚注

  1. ^ 池上英洋『美しきイタリア 22の物語』光文社、2017年、58頁。ISBN 978-4-334-04303-2 

スエトニウス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 05:52 UTC 版)

史的イエスの資料」の記事における「スエトニウス」の解説

詳細は「Suetonius on Christians」を参照 ローマ歴史家スエトニウス(70年頃 - 160年頃)は『皇帝伝(英語版)』でキリスト教徒とその指導者について言及した言及クラウディウスおよびネロ生涯描いた第5巻クラウディウス」の25第6巻ネロ」の16にある。 第6巻ネロ」の16では一般的に西暦64年頃とされているネロによる迫害およびキリスト教徒どのように刑罰加えたかについて言及している。この一節はスエトニウスがキリスト教徒明らかに軽蔑していることを示している。タキトゥス小プリニウスがその著作の中で述べた軽蔑と同じであるが、スエトニウスはイエス自身には言及していない。 一方第5巻クラウディウス」の25には「ユダヤ人は、クレストゥスの扇動により、年がら年中騒動起こしていたので、ローマから追放される。」とあり、イエスへの言及含まれている可能性があるが、学者の間では議論対象になっている。この言及は『使徒言行録18章2節の「クラウディウス帝が、全ユダヤ人ローマから退去させるようにと命令した」と同じ出来事考えられる。ほとんどの歴史家はこの追放西暦49年から50年頃と推定している。スエトニウスはキリスト教徒指導者をChrestusと呼んでいるが、この言葉タキトゥス使っていて、複数ラテン語辞典でChristusの異形一つとしている。しかしスエトニウスの表現騒動当時クレストゥスが生きていてローマでユダヤ人扇動していたことを示唆している。これはスエトニウスの言及歴史的価値全体として弱めるもので、イエスへの言及としての価値について学者全体的な合意はない。しかしスエトニウスが混乱していることは、キリスト教徒による改ざんが無いことも示している。なぜならキリスト教徒筆写者ならばユダヤ人ユダヤ教徒)とキリスト教徒混同するずがないからである。たいていの学者はこの記述イエス言及されていて、この騒動ローマにおけるキリスト教広がりよるもの推定している。しかしスエトニウスの言及価値については学者間で意見分かれている。Craig A. EvansJ・Pマイアー英語版)やCraig S. Keenerのような学者イエス指している可能性が高いと見ている。他方Stephen BenkoやH. Dixon Slingerlandのような学者歴史的価値ほとんどない見ている。

※この「スエトニウス」の解説は、「史的イエスの資料」の解説の一部です。
「スエトニウス」を含む「史的イエスの資料」の記事については、「史的イエスの資料」の概要を参照ください。

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