部族会議議長となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/25 04:15 UTC 版)
「ディック・ウィルソン (オグララ族)」の記事における「部族会議議長となる」の解説
1972年4月、現職のジェラルド・ワンフェザーに対抗して部族議長選挙に出馬。パインリッジに限定せず保留地全域で激しい選挙運動を行い、伝統派と部族会議派の支持を求めた。ちょうど、ネブラスカのゴードンで、オグララ・スー族のレイモンド・イエローサンダーが若い白人のグループに面白半分になぶり殺しにされた事件があり、これに対する弾劾抗議がオグララ族と「アメリカインディアン運動」(AIM)によって組織されていたが、ウィルソンはこれを支持していた。選挙は接戦となったが、保留地の9地区の過半数の票を得た。パインリッジ地区では圧勝だった。 トーマス・ジェファーソンが構想し、アンドリュー・ジャクソンによって推進されたインディアンの保留地政策は、いずれ全国土を合衆国のものとするまで、すべてのインディアン部族のための領土を「保留地」として「取っておき(Reserve)」、連邦管理官を置いて合衆国の管理下に置くというものだった。インディアンの社会は合議制に基づいており、「権力者」としての首長は存在しない。しかし、合衆国は同化政策を進めるうえで、保留地に「部族会議」を設置し、合衆国に都合のよい人物を「部族会議議長」として据えた。 白人のいいなりとなって「議長」が部族民にあれこれと指図する首長制は、すべてを共有する文化を持つインディアンたちにとっては馴染まないものだった。20世紀に入ると、全米の保留地は「部族会議派」と、これに反発して昔ながらの共同体を保つ「伝統派」に二分された。このため、合衆国は「インディアン管理局」(BIA)を通じて、より彼らの支配に通じやすい、1/2ないし1/4の混血インディアンを議会に送り込んだ。彼らは純血のインディアンに比べ、共同体意識も薄く、BIAにすればより御しやすかったからである。ウィルソンもそうした連邦政府の傀儡としての部族議長だった。マリー・クロウドッグはウィルソンを、「部族会議始まって以来の最悪きわまる議長だった」と語っている。 1972年4月10日、オグララ族部族会議議長に就任すると、すぐに議会で強権を振るい始めた。就任最初の週で、議会メンバーのバージル・L・キルズストレートを排斥し、正式な部族の評議会を通さずに5人のメンバーによる行政委員会によって議会を支配し、部族会議へは事後報告するだけだった。ウィルソンは部族民に言論や集会の自由、またパウワウさえ禁止し、ウィルソンに批判的な者たちは、その理由のみで追放された。公衆衛生局から5人の同僚とともに職を解かれたエレン・ムーブス・キャンプはこう述べている。 「ウィルソンが議長になってから、部族会議は彼の私有物になってしまった。彼の選挙運動は、村々に牛を引いてきて、そこで牛を殺して肉を分配するというやり方でした。みんなそれにだまされた。よほどパインリッジの人たちは腹をすかせてたんでしょう。」
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