ポンティアックとの条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:32 UTC 版)
「ポンティアック戦争」の記事における「ポンティアックとの条約」の解説
戦闘は1764年の遠征で事実上終わっていたが、インディアン達はイリノイ郡ではまだ反抗を呼びかけていた。そこではイギリス軍がフランスからシャルトル砦をまだ接収していなかった。この地域ではショーニー族のチャーロット・カスケという戦士が最も執拗な反イギリス派の戦士として頭角を現し、一時的にはポンティアックの影響力を凌ぐ程であった。カスケはイギリスに対抗するためにフランスの協力者を求めてはるか南のニューオーリンズまで旅した。 1765年、イギリスは、イリノイ郡の占領が外交的な手段によってのみ可能であると結論づけた。イギリスの役人はポンティアックに焦点を当てた。ポンティアックはオハイオ領土インディアンがブーケットと休戦したことを聞き、戦闘的な姿勢が影を潜めていた。ジョンソンの副官、ジョージ・クローガンが1765年の夏にイリノイ郡に赴き、途中でキカプー族やマスクーテン族の襲撃で傷を負ったものの、なんとかポンティアックに会い交渉を始めた。 白人はポンティアックを「部族指導者」だと思い込んでいるから、彼個人と条約交渉を結びたがったのである。納得できないチャーロット・カスケはクローガンを火炙りにしようとしたが、ポンティアックがこれを調停し、部族はニューヨーク植民地に移住することに同意した。ポンティアックは1766年7月25日にオンタリオ砦でウィリアム・ジョンソンと正式な条約に調印(×印を書くだけである)した。それはほとんど降伏というようなものではなかった。土地は割譲しない、捕虜は帰さない、人質も取らないという内容だった。 カスケはイギリスの権威を受け入れられず、他のフランス人やインディアンの逃亡者と共にミシシッピ川を渡ってイギリスの領土を離れた。
※この「ポンティアックとの条約」の解説は、「ポンティアック戦争」の解説の一部です。
「ポンティアックとの条約」を含む「ポンティアック戦争」の記事については、「ポンティアック戦争」の概要を参照ください。
- ポンティアックとの条約のページへのリンク