第二可汗国
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羈縻支配を甘んじて受けていた北方民族であったが、徐々に独立の動きを見せ始めていく。 永淳元年(682年)、阿史那骨咄禄らは5千余人で群盗をなし、九姓鉄勒(トクズ・オグズ)を抄掠し、多くの羊馬を得て次第に強盛となっていった。そして、阿史那骨咄禄は自ら立って可汗(イルティリシュ・カガン)となり、その弟の阿史那默啜を殺(シャド:官名)、阿史那咄悉匐を葉護(ヤブグ:官名)とした。12月、阿史那骨咄禄は黒沙城に拠り、并州の北境で侵入略奪を行った。この時、単于長史の王本立のもとにいた阿史徳元珍(古テュルク語: 𐱃𐰆𐰪𐰸𐰸 - Tonyuquq - トニュクク(英語版) - 暾欲谷)が帰順してきたので、阿史那骨咄禄は彼を阿波達干(アパ・タルカン:官名)に任命した。 こうして独立を果たした東突厥は通称第二可汗国とも呼ばれ、その後も唐軍と戦って勝利を収め、唐の辺境地帯を荒らしまわった。阿史那骨咄禄は天授(690年 - 692年)の初めに病死し、その子の默棘連はまだ幼かったので、弟の阿史那默啜が後を継いだ。 阿史那默啜はカプガン・カガン(在位:690年頃 - 716年)と号し、しきりに中国の北辺へ侵入し、略奪をおこなった。しかし、長寿2年(693年)からは周に入朝するようになり、武則天から遷善可汗の称号を受ける。また、万歳通天元年(696年)の契丹討伐に功があったため、特進・頡跌伊施(イルティリシュ)大単于・立功報国可汗を賜った。 聖暦元年(698年)5月、阿史那默啜は上表して武則天の子になること、娘を嫁がせること、和親を結ぶこと、さらに降戸と単于都護府の地に農機具と種子がほしいということを請願した。しかし、武則天が初めこれを許さなかったため、阿史那默啜は激怒し、司賓卿の田帰道を殺害しようとした。時に周の朝廷は東突厥の兵勢を懼れており、納言の姚璹・鸞台侍郎の楊再思の建議でその和親を許可することとなり、すべての要求を呑んだ。7月、そこで武則天は淮陽王武延秀を阿史那默啜の娘に嫁がせようと、右豹韜衛大将軍の閻知微を春官尚書・右武威衛郎将の楊斉荘を司賓卿とし、彼らを黒沙南庭に赴かせた。しかし、阿史那默啜は唐の皇族(李氏)ではなく周の皇族(武氏)が来たことに異を唱え、今すぐに武周政権を倒して唐王朝に戻そうと、8月、武延秀を拘束して閻知微を可汗に封じ、1万騎を率いて南下し、静難・平狄・清夷などの軍鎮を攻撃し、静難軍使の慕容玄崱を降伏させた。周は計45万の兵で防いだが、各所で惨敗した。武則天は激怒し、默啜を改名して斬啜と呼んだ。しかし、東突厥軍の勢いは止まらず、9月、遂に武則天は唐の廬陵王を皇太子とした。そのことを聞いた阿史那默啜はようやく軍を引いた。 聖暦2年(699年)、阿史那默啜は弟の阿史那咄悉匐を立てて左廂察、阿史那骨咄禄の子の阿史那默矩を右廂察に任命した。また阿史那默啜の子の阿史那匐倶を立てて小可汗とし、位は両察の上に置き、処木昆部など十姓(西突厥)の兵馬4万余人を統括させ、また号して拓西可汗とした。これより東突厥は連年辺境を寇した。 景雲元年(710年)、睿宗が即位すると、翌年(711年)1月、阿史那默啜はまた遣使を送って和親を請い、宋王李成器の娘を金山公主として娶ることを許可された。阿史那默啜はその息子の楊我支特勤を遣わし来朝、右驍衛員外大将軍を授かる。頡利可汗以来、最も強盛となった阿史那默啜であったが、老齢となり、部落の多くは次第に逃散していくことになる。 阿史那默啜の晩年は、北方・西方計略に忙殺された。北方ではキルギズや鉄勒諸部が反乱を起こし、西方ではかつて西突厥に従属していた葛邏禄(カルルク)や突騎施(テュルギシュ)が台頭してきた。さらには、西南のアラブ・イスラーム勢力の攻撃によるソグディアナの救援要請にも応じなければならなかった。こうした中、阿史那默啜は九姓鉄勒の抜曳固(抜野古、バイルク:Bayïrqu)部を征伐中に殺されてしまう。 阿史那骨咄禄の子の闕特勤(キュル・テギン:Kül Tigin)は旧部を糾合して、阿史那默啜の子の小可汗及び諸弟を殺し、闕特勤の兄である左賢王の阿史那默棘連を立てて毘伽可汗(ビルゲ・カガン:Bilgä Qaγan)とした。闕特勤は軍事権を握り、暾欲谷(英語版)(トニュクク:Tonyuquq)が補佐役となった。 毘伽可汗の治世は、中国への侵入・略奪が少なく、唐との関係も良好で、玄宗から絹馬貿易の許可を得ていた。しかし、毘伽可汗は親唐家だったわけではなく、絹馬貿易を恒常的に行う確約を得るための方便として、唐に対して誠意を見せていた。つまり、毘伽可汗は略奪第一主義から交易重視策へと政策を変更したのである。また、毘伽可汗は都城を築き、仏教や道教の寺院を建てようとしたが、暾欲谷が草原地帯では遊牧生活様式が優越していることを主張したため、取りやめにした。 暾欲谷が死去し、闕特勤が731年、毘伽可汗が734年に死去すると、第二可汗国は一気に衰退していくこととなる。東突厥では内輪もめが相次ぎ、741年以降、鉄勒の回紇(ウイグル)が葛邏禄(カルルク)・抜悉蜜(バシュミル)などとともに東突厥を攻め、抜悉蜜の酋長が可汗となったり、回紇の骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が骨咄禄毗伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キュル・カガン)となったりして、745年ついに東突厥最後の白眉可汗が殺され、東突厥は滅んだ。
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