第二可汗国とは? わかりやすく解説

第二可汗国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 10:05 UTC 版)

東突厥」の記事における「第二可汗国」の解説

羈縻支配甘んじて受けていた北方民族であったが、徐々に独立動き見せ始めていく。 永淳元年682年)、阿史那骨咄禄らは5千余人群盗をなし、九姓鉄勒(トクズ・オグズ)を抄掠し、多くの羊馬を得て次第強盛となっていった。そして、阿史那骨咄禄は自ら立って可汗(イルティリシュ・カガン)となり、その弟の阿史那默啜を殺(シャド官名)、阿史那咄悉匐を護(ヤブグ官名)とした。12月阿史那骨咄禄は黒沙城に拠り并州北境侵入略奪行った。この時、単于長史の王本立のもとにいた阿史徳元珍(古テュルク語: 𐱃𐰆𐰪𐰸𐰸 - Tonyuquq - トニュクク(英語版) - 暾欲谷)が帰順してきたので、阿史那骨咄禄は彼を阿波達干(アパ・タルカン:官名)に任命した。 こうして独立果たした東突厥通称第二可汗国とも呼ばれその後唐軍戦って勝利を収め、唐の辺境地帯荒らしまわった阿史那骨咄禄天授690年 - 692年)の初めに病死しその子默棘連はまだ幼かったので、弟の阿史那默啜が後を継いだ阿史那默啜はカプガン・カガン(在位690年頃 - 716年)と号し、しきりに中国北辺侵入し略奪おこなった。しかし、長寿2年693年)からは周に入朝するようになり、武則天から遷善可汗称号を受ける。また、万歳通天元年696年)の契丹討伐に功があったため、特進・頡跌伊施(イルティリシュ)大単于・立功報国可汗賜った聖暦元年698年5月阿史那默啜上表して武則天の子になること、娘を嫁がせること、和親を結ぶこと、さらに降戸と単于都護府の地に農機具種子ほしいということを請願した。しかし、武則天初めこれを許さなかったため、阿史那默啜激怒し、司賓卿の田帰道を殺害しようとした。時に周の朝廷東突厥兵勢懼れており、納言姚璹鸞台侍郎楊再思建議でその和親許可することとなり、すべての要求呑んだ7月、そこで武則天淮陽王武延秀を阿史那默啜の娘に嫁がせようと、右豹韜衛大将軍の閻知微を春官尚書・右武威衛郎将の楊斉荘を司賓卿とし、彼らを黒沙南庭に赴かせた。しかし、阿史那默啜は唐の皇族李氏ではなく周の皇族武氏)が来たことに異を唱え、今すぐに武周政権倒して唐王朝戻そうと、8月、武延秀を拘束して閻知微を可汗封じ1万騎を率いて南下し、静難・平狄・清夷などの軍鎮を攻撃し、静難軍使慕容玄崱を降伏させた。周は計45の兵で防いだが、各所惨敗した武則天激怒し默啜改名して斬啜と呼んだ。しかし、東突厥軍の勢い止まらず9月遂に武則天は唐の廬陵王を皇太子とした。そのこと聞いた阿史那默啜はようやく軍を引いた聖暦2年699年)、阿史那默啜は弟の阿史那咄悉匐を立てて左廂察、阿史那骨咄禄の子阿史那默矩を右廂察に任命した。また阿史那默啜の子阿史那匐倶を立てて可汗とし、位は両察の上に置き、処木昆部など十姓(西突厥)の兵馬4万余人を統括させ、また号して拓西可汗とした。これより東突厥連年辺境を寇した。 景雲元年710年)、睿宗即位すると、翌年711年1月阿史那默啜はまた遣使を送って和親請い宋王李成器の娘を金山公主として娶ることを許可された。阿史那默啜はその息子の楊我支特勤を遣わし来朝右驍衛員外大将軍授かる頡利可汗以来、最も強盛となった阿史那默啜であったが、老齢となり、部落多く次第逃散していくことになる。 阿史那默啜晩年は、北方西方計略忙殺された。北方ではキルギズ鉄勒諸部が反乱起こし西方ではかつて西突厥従属していた葛邏禄カルルク)や突騎施(テュルギシュ)が台頭してきた。さらには西南のアラブ・イスラーム勢力攻撃によるソグディアナ救援要請にも応じなければならなかった。こうした中、阿史那默啜九姓鉄勒の抜曳固(抜野古、バイルク:Bayïrqu)部を征伐中に殺されてしまう。 阿史那骨咄禄の子闕特勤キュル・テギン:Kül Tigin)は旧部糾合して、阿史那默啜の子の小可汗及び諸弟を殺し闕特勤の兄である左賢王阿史那默棘連立てて毘伽可汗ビルゲ・カガン:Bilgä Qaγan)とした。闕特勤軍事握り、暾欲谷(英語版)(トニュクク:Tonyuquq)が補佐役となった。 毘伽可汗治世は、中国への侵入略奪少なく唐との関係良好で、玄宗から絹馬貿易許可得ていた。しかし、毘伽可汗は親唐家だったわけではなく、絹馬貿易恒常的に行う確約を得るための方便として、唐に対して誠意見せていた。つまり、毘伽可汗略奪第一主義から交易重視策へと政策変更したのであるまた、毘伽可汗都城築き仏教道教寺院建てようとしたが、暾欲谷が草原地帯では遊牧生活様式優越していることを主張したため、取りやめにした。 暾欲谷が死去し闕特勤731年毘伽可汗734年死去すると、第二可汗国は一気衰退していくこととなる。東突厥では内輪もめが相次ぎ741年以降鉄勒回紇ウイグル)が葛邏禄カルルク)・抜悉蜜(バシュミル)などとともに東突厥攻め、抜悉蜜の酋長可汗となったり、回紇骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が骨咄禄毗伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キュル・カガン)となったりして、745年ついに東突厥最後白眉可汗殺され東突厥滅んだ

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