歴史時代
有史時代
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有史時代における重要な火山活動について解説する。広義の草津白根山全体の活動を網羅しているが、山の名称が明記していない場合は、基本的に狭義の草津白根山を指す。 1882年(明治15年)8月6日 - 水蒸気噴火(湯釜・涸釜):降灰 1897年(明治15年)7月4日〜8月 - 小規模水蒸気噴火(湯釜):硫黄採掘所全壊 1900年(明治33年)10月1日 - 小規模水蒸気噴火 1902年(明治35年)7月〜9月 - 水蒸気噴火(弓池付近):降灰 1905年(明治38年)10月 - 小規模水蒸気噴火 1925年(大正14年)1月22日 - 水蒸気噴火:降灰、VEI=2 1927年(昭和2年)12月31日 - 小規模水蒸気噴火 1928年(昭和3年)1月29日〜31日 - 小規模水蒸気噴火 1932年(昭和7年)10月1日 - 水蒸気噴火:降灰、ラハール(火山泥流):死者2名、山上施設破壊 1937年(昭和12年)11月・12月 - 小規模水蒸気噴火:降灰 1939年(昭和14年)2月〜5月 - 水蒸気噴火:降灰 1940年(昭和15年)4月・9月 - 噴煙 1942年(昭和17年)2月2日 - 小規模水蒸気噴火(割れ目) 1958年(昭和33年)12月 - 小規模水蒸気噴火(湯釜) 1976年(昭和51年) 3月2日 - 小規模水蒸気噴火(水釜) 8月3日 - 本白根山・白根沢で火山ガスにより死者3名 1982年(昭和57年) 10月26日 - 小規模水蒸気噴火(湯釜・涸釜):降灰 12月29日 - 水蒸気噴火(湯釜):降灰、VEI=1 1983年(昭和58年) 7月26日 - 小規模水蒸気噴火(湯釜) 11月13日 - 水蒸気噴火(湯釜):降灰 12月21日 - 小規模水蒸気噴火(湯釜・涸釜):降灰 2018年(平成30年)1月23日 - 水蒸気噴火(本白根山・鏡池北火口(鏡池北火砕丘)付近)。噴石により死者1名、負傷者11名。 詳細は「本白根山#火山活動」を参照
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有史時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 15:41 UTC 版)
テュルク諸語の最古の文献は、第二可汗国時代の686年から687年頃に建てられたチョイレン銘文と呼ばれる突厥碑文で、古テュルク文字(テュルク・ルーン文字、突厥文字)で書かれた。その他の突厥碑文は、モンゴル高原の各所に残る。745年に突厥を滅ぼしたウイグルも古テュルク文字を受け継いだ。 モンゴル高原から中央アジアに移住した後、8世紀にはソグド文字を改良したウイグル文字を使用して古ウイグル語が書かれた。 この言語は天山ウイグル王国(856年 - 13世紀)を建てると公用語となった。なお、古ウイグル語は後述のチャガタイ語に連なる現代ウイグル語とは系統が異なる。 イスラム教を受け入れたカラハン朝(840年 - 1211年)では、アラビア文字でテュルク語(トルコ語版)を書き取るようになり、『クタドゥグ・ビリグ』のような文学作品が著された。その後、中央アジアではチャガタイ語、アナトリアではオスマン語がそれぞれアラビア語・ペルシア語の要素を取り入れた典雅な文章語として発展した。 20世紀に入ると文章語の簡略化が進められ、各地の口語を基礎とし、ラテン文字やキリル文字で書き表される新しい文章語が生まれた。しかし、依然としてイランなどではアラビア文字が使用されており、中国でも一度ラテン文字化が進められたテュルク系諸言語が1980年代にアラビア文字表記に戻されたので、現代テュルク諸語を表記する文字は大きく分けて3つ存在する。 ソ連崩壊後、旧ソ連のテュルク諸語ではキリル文字からラテン文字へ移行する動きが見られる(アゼルバイジャン語、トルクメン語、ウズベク語など)。 ロシアのタタール語などもラテン文字への移行を目指しているが、ロシア政府の介入によってラテン文字の公的使用は制限されている。
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有史時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 03:28 UTC 版)
紀元前13世紀ごろからは北西のイラン高原よりアーリア人が大移動を開始し、この地域を占領し、他の遊牧系のダーサやダスユと争った(十王戦争)。アーリア人は牧畜を中心とした半定住生活を送りながら次第に東のガンジス川流域へと進出し、紀元前6世紀ごろにはガンジス中流域からインダス上流域にかけて十六大国と呼ばれる国家群が成立した。インダス川上流域に拠点を置いたのはそのうちのカンボージャ王国、ガンダーラ王国、クル王国であった。ガンダーラ王国の名はリグ・ヴェーダにも記載されておりヴェーダ時代から存続した国家であったが、紀元前6世紀にカンボージャ王国とガンダーラ王国はアケメネス朝ペルシャの属領となった。アケメネス朝を滅ぼしたマケドニア王国のアレクサンドロス大王は紀元前326年にインダス川上流域のパンジャブ地方に侵入し、ヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族(Paurava)の王ポロスを破りインダス流域を支配下におさめた。しかし大王死後ディアドコイ戦争がおこるとこの地域の支配は緩み、紀元前305年、再支配を狙ったセレウコス朝のセレウコス1世を退けてインドのマウリヤ朝のチャンドラグプタがインダス領域を支配することとなった。マウリヤ朝衰退後は紀元前185年頃北のバクトリアからバクトリア王国が侵攻し、インド・グリーク朝の支配を確立した。ついでインド・スキタイ王国、クシャーナ朝、インド・パルティア王国、ふたたびクシャーナ朝、エフタル、サーサーン朝と王朝は次々と交代していった。7世紀後半、ウマイヤ朝のアブドゥルマリクによってインダス流域全域が征服された。 その後は群雄割拠が続くが、10世紀末にアフガニスタンのガズナ朝がインダス上流域に侵攻して以降、西方からのイスラム国家の侵攻が相次ぎ、この地域は次第にイスラム化されていった。ティムール帝国のティムールやムガル帝国初代皇帝のバーブルもインダス川を渡ってインドへと侵攻している。16世紀後半にはムガル帝国のアクバルによって征服され、1世紀ほどムガル領となっていたが、ムガル帝国の衰退とともに地方勢力が台頭し、上流域はシク王国が支配し、下流域はいくつもの小王国に分裂した。19世紀に入るとイギリスが進出をはじめ、シンド占領後2度のシク戦争ののち1848年にシク王国を滅ぼして、インダス川流域のほぼ全域をイギリス領インド帝国へと編入した。 インドの独立運動が盛んになるなか、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が対立するようになると、全インド・ムスリム連盟が唱えるインド・パキスタン分離独立論が勢いを増し、1947年には宗教人口区分に合わせて上流域の一部がインド領、流域の大部分がパキスタン領として分離独立した。
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有史時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 22:11 UTC 版)
古典期は二つに分けられ、前古典期はギリシャの独自性が形成された時期であり、古典期はその独自性に磨きがかかった時期である。ただし、この境目については議論が存在しており、一概に決定されるものではない。以下は桜井万里子編『ギリシア史』に従った境界線を使用する点について注意されたい。
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