現在の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 15:37 UTC 版)
「ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「現在の解釈」の解説
この紀元前389年の戦いと、以下に述べる紀元前386年の戦いには類似点が多い。どちらもカミッルスが軍を指揮してウォルスキを倒し、続いてストゥリウムを救援する。このため現代の学者の何人かは、これは同じ戦争の重複記述ではないかと考えている。この説を最初に唱えたのはドイツの歴史家カール・ジュリウス・ベロッホ(en)であり、彼はガリア人によるローマの破壊の影響は重大でかつ長期間続いたと考える。したがって、この敗北の直後にカミルスがエトルリアに勝利したというのは、ガリアに対する敗北を小さく見せるための創作である。後の歴史家達は、この創作された勝利を異なる方法で利用し、発生年をずらしまた細部も変えた。最後にリウィウスがこれを『ローマ建国史』にまとめたため、類似した戦闘が複数あるように記載されることとなったが、どちらも歴史的事実ではない。 コーネル(1995)は、ガリア人による略奪によって一時的に挫折はしたものの、ローマは直ちに回復したとする。続く勝利は、紀元前420年代から始まったローマの拡張政策の一環である。これらの勝利は誇張され詳細すぎる部分もあり、また一部は重複もしているが、しかし基本的には歴史的事実を反映しており、ローマの拡大という大きな絵と合致している。カミルスの役割は誇張されているが、独裁官に5回も選ばれるなど、この時期のローマにおける彼の重要性を証明している。 オークレー(1997)も、紀元前389年のウォルスキに対するローマの勝利は歴史的事実であると考えている。現存する3人の記述が類似しているのは、おそらくは同一の記録に基づいて書かれたためであり、細部が異なるのはそれぞれが省略した部分が異なるためであろう。この仮説はリウィウスとプルタルコスのストゥリウムでの戦闘の記述が非常に類似することで強められる。しかしながら、もともとの記録は、ローマがウォルスキに対してマエキウムで勝利したと書かれていた程度であり、残りは後世の創作であろう。リウィウスの記述も、既婚夫人に対する金の返還を除いては正確な情報に基づいたものである。そうであれば紀元前389年に戦闘があったことの裏づけになる。ウォルスキに対する勝利は、ポンプティヌス地方がローマに組み込まれるきっかけとなった。 フォーサイス(2005)は、より懐疑的な視点で見ている。彼は歴史的な事実はカミルスの名を刻んだ黄金の杯がユーノー神殿に寄贈されたことのみが事実と考えている。古代の歴史家達は、カミルスの時代の歴史的敵対者、すなわちエトルリア、アエクィ、ウォルスキ、に対するローマの勝利を創作し、その日時をローマが全方面に敵を抱えていた、ガリア人による略奪の後とした。
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ベロッホは、紀元前386年のカミッルスの作戦は紀元前389年のそれ(それ自体がフィクションだが)の重複記載とし、さらに紀元前385年の出来事もサトゥリクムにおけるカミッルスの勝利を前提としているため、歴史的事実ではないとする。より最近では、コーネル(1995年)、オークレー(1997年)およびフォーサイス(2005)は、これらの出来事をポンプティヌス地域に対するローマの拡大として解釈している。従って、戦闘はローマ領内ではなくサトゥリクムとアンティウムで行われたとする。 プレブスが抱えていた負債はこの頃のローマの大きな問題であった。土地の分配は負債の解消に有効な方法であったため、これがローマのポンプティヌス地域への拡張の動機となった。古代の資料には公有地分配法に関して幾つもの法案が記録されているが、この内いくつかは歴史的事実では無いかも知れない。シキニウス氏族は、パトリキとプレブスの紛争におけるプレブス側の指導的氏族として名高いが、このうちどれが歴史的事実かは不明である。土地分配を提案したとする紀元前387年の護民官リキウス・シキニウスの名前はこれ以外には登場せず、従ってフィクションの可能性がある。 ウォルスキを援助したとするキルケイは紀元前393年にローマが、ウェリトゥラエは紀元前401年にラティウムが植民している。しかし、実際には守備兵を置いた程度のものであり、紀元前385年までにウォルスキはこれらの街を奪回していたものとと思われる。一方、植民した市民がローマに反乱した可能性もある。であるとすれば、この二つの街は、他のラティウムの街と比べてポンプティヌス地域へのローマの拡大が脆弱なものと感じていたのであろう。
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