ローマの占星術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:57 UTC 版)
ローマ帝国では、すでに見たように理論面ではギリシャ人に多くを負い、独自の発展はほとんど見られなかった[要出典]。 歴代ローマ皇帝には占星術を重視する者も見られ、占星術師トラシュルスを重用したティベリウス、占星術で最期を予言されたことに怯え、実際に暗殺されたドミティアヌスなどがいたが、キリスト教の広まりとともに衰えた。西ローマ帝国滅亡後にも迷信的とされた通俗占星術は命脈を保ったが、当時「科学」の一端を担っていた占星術の理論体系は、ヨーロッパ社会からは失われた。中世のヨーロッパ社会では、ヴェズレーの大聖堂の彫刻など、獣帯を描いたものも見られたが、それらは主として暦を表していたに過ぎず、占星術との関連を論じるのは適切ではない。 ローマ帝国がキリスト教化していくと、キリスト教会の権力が大きくなり、教会の反占星術の姿勢が強まっていった。なかでもアウグスティヌスの占星術に対する攻撃は、キリスト教会の占星術に対する態度を決定づけた。キリスト教会は、占星術は人間の自由な意志を宿命論的な側面から脅かすとして問題視した。そして、キリスト教にとっての異端の宗教であるグノーシス派やマニ教などが占星術と結びつけて考えられたことも大きかった。 東ローマ帝国では、レトリオスの『フロールイト』(500年ごろ)が、火、水、風、土のグランドトラインを論じるなど、『テトラビブロス』をいくらか発展させた研究も見られたものの、基本的には東ローマ帝国滅亡(1453年)まで古代ギリシャ占星術を教条化し、固持し続けた。
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