ローマの大敗
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ウァロの著作によれば、この戦いは紀元前390年7月18日に起きたとされているが、実際には紀元前387年と推定される。約2万4千人のローマ兵がクイントゥス・スルピキウスの指揮でブレンヌスの指揮するほぼ同人数のセノネス族と戦った。ローマ側はセノネス族のローマ進軍を阻止すべく、アッリア川に6個の軍団を配置した。当時、1軍団は4,200名の兵士で構成されていたが、定員を満たしていることは滅多になかった。当時のローマ軍は市民軍であり、ギリシア風の密集陣形をとってその中央に重装歩兵(裕福なローマ人)がいて、外側にいくほど貧しい者が貧弱な武装で取り囲んでいた(各兵士は自分の装備を自分で用意した)。ガリア側が攻撃を開始すると、密集陣形の側面の兵は逃げ出し、中央のローマ人が取り囲まれ、殺された。陣形の中央には年上の市民が多く、彼らを失ったことがその後の流れに大きく影響した。 逃げ出した兵士たちはパニック状態でローマに逃げ帰った。リウィウスは「全てはローマに急いで戻り、門も閉じずに議事堂に避難した」と記している。ローマでは市民がカンピドリオにバリケードを築いていた。ガリア側は正面攻撃を試みたが失敗し、丘の中腹で休止したが、ローマ側の機転の効いた反撃で多くの犠牲を出すことになった。このとき、ウェイイのローマ兵が元老院に対してマルクス・フリウス・カミルスの独裁官への復職を求めるメッセージを届けるためやってきて、ガリア人が無視していた急な崖を登っていった。メッセンジャーは元老院の承認を得て戻ったが、このときガリア側がそのメッセンジャーの使ったルートに気づいた。伝説によるとマルクス・マンリウス・カピトリヌスはユーノーの聖なるガチョウにガリアがその経路で攻撃してくることを知らされた。カンピドリオ以外の市内は略奪され、ガリア側にことごとく破壊された。マルクス・フリウス・カミルスが救助部隊と共にかけつけたとされているが、これは敗北の屈辱を糊塗するローマ側の宣伝かもしれない。ガリア側は包囲攻撃の準備ができていなかったと見られ、死者を埋葬しなかったため伝染病が発生した。ブレンヌスとローマ側は停戦協定の協議に入り、ローマ側が金1000ポンドを支払うことで合意した。言い伝えによると、さらに侮辱を与えるためブレンヌスが通常より重い重りで金を量らせようとしていたことが発覚した。ローマ側がこれを指摘すると、ブレンヌスは自分のベルトと剣を秤の重り側に投げかけ、ラテン語で "vae victis"(征服された者に災いあれ)と言ったという (Livy V. 48)。 何人かのローマ史家によると、カミルスが部隊と共に到着したのはまさにこの瞬間であり、剣を秤のもう一方に置いて「金ではなく、鉄こそが祖国を回復させる」と応え、ガリア側への攻撃を開始した。戦闘はローマ市街に拡大したが、狭い通りではどちらも満足に戦えなかった。双方の軍は市外に出て、翌日戦った。カミルス軍は期待通りに善戦し、ガリア軍は退却した。ローマ市民はカミルスを「第二のロームルス」すなわちローマ第二の建国者と呼んだ。
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