ローマの大敗とは? わかりやすく解説

ローマの大敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:06 UTC 版)

アッリアの戦い」の記事における「ローマの大敗」の解説

ウァロ著作によれば、この戦い紀元前390年7月18日起きたとされているが、実際に紀元前387年推定される。約2万4千人ローマ兵がクイントゥス・スルピキウスの指揮ブレンヌス指揮するほぼ同人数のセノネス族と戦ったローマ側はセノネス族のローマ進軍阻止すべく、アッリア川に6個の軍団配置した当時1軍団は4,200名の兵士構成されていたが、定員満たしていることは滅多になかった。当時ローマ軍市民軍であり、ギリシア風の密集陣形をとってその中央重装歩兵裕福なローマ人)がいて、外側いくほど貧しい者が貧弱な武装取り囲んでいた(各兵士自分装備自分用意した)。ガリア側が攻撃開始すると、密集陣形側面の兵は逃げ出し中央のローマ人取り囲まれ殺された。陣形中央には年上市民多く、彼らを失ったことがその後の流れ大きく影響した逃げ出した兵士たちパニック状態ローマ逃げ帰ったリウィウスは「全てローマ急いで戻り、門も閉じずに議事堂避難した」と記している。ローマで市民カンピドリオバリケード築いていた。ガリア側は正面攻撃試みた失敗し、丘の中腹休止したが、ローマ側機転効いた反撃多く犠牲を出すことになった。このとき、ウェイイローマ兵が元老院に対してマルクス・フリウス・カミルス独裁官への復職求めメッセージ届けるためやってきて、ガリア人無視していた急な崖を登っていったメッセンジャー元老院承認得て戻ったが、このときガリア側がそのメッセンジャー使ったルートに気づいた。伝説によるとマルクス・マンリウス・カピトリヌスユーノー聖なるガチョウガリアがその経路攻撃してくることを知らされた。カンピドリオ以外の市内略奪されガリア側にことごとく破壊された。マルクス・フリウス・カミルス救助部隊と共にかけつけたとされているが、これは敗北屈辱糊塗するローマ側宣伝かもしれないガリア側は包囲攻撃準備ができていなかったと見られ死者埋葬しなかったため伝染病発生したブレンヌスローマ側停戦協定協議入りローマ側が金1000ポンド支払うことで合意した言い伝えによると、さらに侮辱与えるためブレンヌス通常より重い重りで金を量らせようとしていたことが発覚したローマ側がこれを指摘すると、ブレンヌス自分ベルトと剣を秤の重り側に投げかけ、ラテン語で "vae victis"(征服された者に災いあれ)と言ったという (Livy V. 48)。 何人かのローマ史家によると、カミルスが部隊と共に到着したのはまさにこの瞬間であり、剣を秤のもう一方置いて「金ではなくこそが祖国回復させる」と応えガリア側への攻撃開始した戦闘ローマ市街に拡大したが、狭い通りではどちらも満足に戦えなかった。双方の軍は市外出て翌日戦った。カミルス軍は期待通り善戦しガリア軍は退却したローマ市民はカミルスを「第二ロームルス」すなわちローマ第二建国者と呼んだ

※この「ローマの大敗」の解説は、「アッリアの戦い」の解説の一部です。
「ローマの大敗」を含む「アッリアの戦い」の記事については、「アッリアの戦い」の概要を参照ください。

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