ローマの崩壊: 372年–410年
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「中世前期」の記事における「ローマの崩壊: 372年–410年」の解説
詳細は「ローマ帝国の衰退」を参照 2世紀の初め、都市化や海運商業、人口などのローマ文明の様々な指針が、衰退を始めた。地中海の難破船の40%が、3世紀のものとして発見されている。150年から400年にかけての時代にローマ帝国の人口は、6500万人から5000万人に20%以上減少したと見積もられている。暗黒時代の寒冷期(300年-700年)にこのことが関連があり、この時代に農作物の収穫が減少する地球規模の温度低下があった。 3世紀前半ゲルマン人は各地のサルマタイと戦う手強い同盟を作りながらスカンディナヴィアから南に移住し黒海に到達した。ルーマニアと黒海の北のステップではゲルマン人であるゴート族が、少なくとも2つの王国を建国した。 フン族が372年-375年に到達すると、この王国の歴史は終わりを告げた。フン族はトルコ語を話す貴族政治の帝国を建国した中央アジアの民族の同盟であった。馬上から複合されたリカーブ弓を放つ困難な様式を習得していた。ゴート族は非武装の入植者としてローマ帝国に入ることを了承してローマ帝国の領域に(376年)難民となることを要請した。しかし多くは武器を携行することを認められてドナウ川の国境警備に赴いた。 ローマの軍団の訓練と組織は、見事な戦闘部隊となった。ローマ人は騎兵隊が敵と出会った際に散開しがちだとはいえ、戦闘中に隊形を維持するよう訓練できることから、騎兵隊より歩兵を好んだ。蛮族の部隊が略奪が約束されて増加し鼓舞されたとはいえ、軍団は給料や一定の訓練、装備、食糧に必要な中央政府や税金を必要とした。その為に農業活動や経済活動で衰退が倍になった帝国を運営する財政負担は、帝国の税収を減少させ、職業軍人による軍隊を維持するのにもがくことになった。 蛮族の侵入 ゲルマン族 アングル人、サクソン人 フランク人 ゴート族 西ゴート族 東ゴート族 フン族 ヴァンダル族 ローマ帝国 西ローマ帝国 東ローマ帝国 ゴート戦争で、ゴート族は反旗を翻し、ハドリアノポリスの戦い(378年)で主要なローマ軍と対戦した。この時までに、ローマ軍は主に戦闘ごとに召集した蛮族や兵士で成り立っていた。一般的な規律の乱れは、小さな盾や軽い武器の使用につながった。栄誉を共有することを望まず、ウァレンス東ローマ皇帝は援軍と共に進軍中のグラティアヌス西ローマ皇帝を待たずにフリティゲルン率いるテルヴィンギに対する攻撃を命じた。ローマ側は完全に交戦中だったとはいえ、グロイトゥング騎兵隊が到着した。ローマ軍の3分の1だけが、逃走を図った。ローマの軍事作家アンミアヌス・マルケリヌスによると、ローマ人がカンナエの戦い以来被った最も困惑させる敗戦であった。東ローマ帝国の核となる軍は、崩壊し、ウァレンスは殺され、ドナウ川沿いの軍備を含めて、ゴート族はバルカン半島を自由に荒廃させた。エドワード・ギボンが言うように、「ローマ人はかなり冷静かつ簡潔に大軍で遂行された『正義の』活動に言及したが、この地域が成功した蛮族の武器で侵略され荒廃した際に、自身の被害への同情や効果的な言葉を備えている。」 帝国ではハドリアノポリスで崩壊した可動性の職業部隊を再建する人材や恐らく意志が欠如し、その為に戦える蛮族軍に頼ることを余儀なくされた。東ローマ帝国は贈り物でゴート族を追い払うことができた。西ローマ帝国はあまり運がなかった。西ローマ帝国の半蛮族司令官スティリコは、402年-403年には西ゴート族の手で、406年-407年には他のゴート族の手でイタリア侵攻をうまくかわせるライン川の前線を奪い取った。 フン族やヴァンダル族、スエビ族、アラン人の進軍がマインツ近郊の凍結したライン川を渡って始まる前に逃げ出し、406年12月31日、前線は開け、ガリアにこの民族がなだれ込んだ。暫くしてブルグント族やアラマンニ人の一団が続いた。続く反蛮族ヒステリーの発作で、ホノリウスにはすぐに打ち首にするスティリチョがいた(408年)。スティリチョは首を送り、「ローマの将軍の最後に相応しい覚悟と共に」とギボンは書いた。ホノリウスは補佐する唯一の無能な廷臣と宮廷を去った。410年、アラリック1世率いる西ゴート族は、ローマ市を占領し、3日間市は燃え死体で通りが埋め尽くされるほどの虐殺が行われ、宮廷からは貴重品が持ち去られ、富を隠していると思われる者は、尋問され、拷問を受けた。新たにキリスト教に改宗したので、ゴート族は教会の財産には敬意を払った。しかしバチカンなどの教会で保護された人々には大して運はなかった。
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