ローマの対外関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:16 UTC 版)
「ハンニバルのアルプス越え」の記事における「ローマの対外関係」の解説
ハンニバルはローマの政治状況の情報を得ており、攻撃の好機であると見た。彼はギリシャ人のスパイをローマのあちこちに有しており、またローマ元老院内にも情報源を有していた。ローマは第一次ポエニ戦争(紀元前264年-紀元前241年) の勝利後、数年にわたってイベリア半島の重要拠点を抑えて支配を強化するとともに、シチリア、コルシカおよびサルディニアの支配も強化していた。 加えて、ローマはガリア人との間に1世紀以上にわたって断続的に戦争を行っていた。ボイイ族は紀元前238年にローマとの戦争を開始し、これは紀元前236年まで続いた。紀元前225年には、ローマが殖民を進めていたイタリア北部の先住民が攻撃をしかけたが、これは撃退された。ローマはその国境をアルプスまで前進させることを決定した。紀元前224年にボイイ族はローマに臣従し、翌年にはアナリ族も臣従した。紀元前223年には、ローマは再びガリア人との戦闘を始めたが、今回はインスブリ族(en)が相手だった。当初ローマはインスブリ族に敗北を喫したが、ポー川とアッダ川の合流点近くの浅瀬を渡河して敵地に入った。その後、特に戦闘は無かったものの数日間野営し、現地にいたローマの執政官(コンスル)はインスブリ族と交渉を行うことを決定した。この停戦協定によって、ローマ軍は同盟国であるセノマニ族(en)領内に撤退した。しかし一旦セノマニ領内に撤退した後、ローマは再びインスブリ領内に侵攻し、今回は勝利した。 紀元前222年、インスブリ族がローマ元老院に外交使節を派遣し、和平を求めてきた。しかし、軍事的な勝利を望んだ執政官グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスとマルクス・クラウディウス・マルケッルスはこれを拒否、このためガリア人はローマとの戦争の準備を開始した。彼らはアルプスの反対側から3万人の傭兵を雇用し、ローマ軍を待ち受けた。戦闘に適した時期が訪れると、ローマ軍は再びインスブリ領内に侵攻した。メディオラヌム(現在のミラノ)で激しい戦闘が行われ、ガリア反乱軍はローマに屈した。
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