その後のイリュリア州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:56 UTC 版)
「イリュリア州」の記事における「その後のイリュリア州」の解説
ウィーン議定書で、オーストリアがイリュリア州所有を認められた。1816年、オーストリアは帝国直轄領のダルマチアとドゥブロヴニクを除いて、カリンティア、カルニオラ、(スロベニア)イストリアの3地方をイリュリア王国として再度設置した。クロアチアの民政はハンガリー行政下で1822年に始まった。ウィーン政府が治めるイリュリア王国とは違い、クロアチアの裁定を行うのはプレスブルク(現在のブラチスラヴァ)にあるハンガリー議会であった。中世にクロアチア王国を支配していた歴史を持つハンガリーは、クロアチアを『ハンガリーに従属する地方』とみなし、強力なハンガリー化を押しつけてきたため、両者の衝突が激しさを増していった。 クレメンス・メッテルニヒが宰相となると、イリュリア王国の行政・教育分野で再度強力なドイツ化が推し進められ、民族的自覚の行動一切が弾圧の対象となった。イリュリア王国が正式に廃止されたのは1849年だった。
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