その後のイラン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 19:04 UTC 版)
「ファトホル=モビーン作戦」の記事における「その後のイラン」の解説
本作戦でもタリーゴル=コッズ作戦とベイトル=モガッダス作戦とともにフーゼスターンからイラク軍を駆逐することに成功した。この成功に気をよくしたテヘランの強硬派(当時のマジェリス議長ハーシェミー・ラフサンジャーニーを筆頭)はさらに戦果の拡大を要求、イラク領内への逆侵攻が支持され、その準備に入った。しかし、イラク軍はソ連式の複合的戦術(それでも末端将校の自主性を認めない硬直したものではあるが)を駆使するのに対して、イラン軍は攻撃の主力に革命防衛隊とバスィージを重用し、訓練不十分のまま単調かつ狂信的な波状的人海戦術に頼るのみであった。
※この「その後のイラン」の解説は、「ファトホル=モビーン作戦」の解説の一部です。
「その後のイラン」を含む「ファトホル=モビーン作戦」の記事については、「ファトホル=モビーン作戦」の概要を参照ください。
- その後のイランのページへのリンク