その後のアーノルドと遠征隊員
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「ベネディクト・アーノルドのケベック遠征」の記事における「その後のアーノルドと遠征隊員」の解説
カナダ侵攻は、1776年春から夏にかけての、大陸軍のタイコンデロガ砦への退却で幕を閉じた。この砦はモントゴメリーの出発点であった。退却の最後の方で、アーノルドは抜かりなく後衛の指揮を執り、ハドソン川へのイギリス軍の接近をかなり遅らせることができた。 ロジャー・エノスと彼の部隊は、1775年11月の末にケンブリッジに戻った。エノスはただちに「許可もなく指揮官としての役目を下りた」件で軍法会議にかけられた 。無罪になったものの、宿営地ではいい待遇は受けず、そのすぐ後で退官し、アメリカ独立戦争で大陸軍として戦うことはなかった 。ルーベン・コルバーンは、アーノルドとワシントンが約束したにも関わらず、仕事に対する報酬が払われず、この遠征で経済的損失をこうむった。 ヘンリー・ディアボーンは、アメリカ独立戦争の後ケネベック川の流域に居を構え、トマス・ジェファソンから陸軍長官に任命される前は、この地域からアメリカ議会選挙に出馬した。遠征の間、多くの日誌をつけた一人である兵士サイモン・フォーブズは、ケベックの戦いで捕囚されたが、仲間2人と1776年8月に脱走した。そして、この遠征を違った方向から、不十分な資料を頼りにもういちどなぞってみた。アーノルドの遠征隊が道中廃棄した道具よりも、もっといい道具を使い、天候にも恵まれたため、彼らは9月末にはマサチューセッツウースターの自宅近くに着き、最終的にはまた軍に加わった 。シメオン・タイヤーがつけた日誌は、ロードアイランド歴史協会により1867年に出版された、その本は『1775年のカナダ侵攻』という見出しだった。ケベックで捕虜となり、1777年7月1日に捕虜交換が行われて、大陸軍の少佐となった。1777年11月の「ミフリン砦の包囲」で名を高らしめ、前の指揮官が負傷してからは、短期間指揮を執った。
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