その後のアメリカ本土空襲計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 10:23 UTC 版)
「アメリカ本土攻撃」の記事における「その後のアメリカ本土空襲計画」の解説
これらの太平洋・アジア戦争の序盤における、日本軍の一連のアメリカ本土への攻撃の成功以降、連合国軍によるアメリカ西海岸部及びアラスカ沿岸部の対潜水艦監視が格段に厳しくなったことや、この空襲以降も日本軍が各地で快進撃を続け戦線が延びた為に、実際に与える被害が軽微で、シンボル的な意味合いしか持たない潜水艦による砲撃や、潜水艦搭載偵察機による空襲を行う余裕がなくなってきたことなどから、この時を最後に日本海軍の艦艇や航空機によるアメリカ本土に対する空襲や砲撃が行われることはなくなった。 しかし1942年には、当時多くの軍用機の開発、生産を行なっていた中島飛行機の創業者の中島知久平が、アメリカ本土を空襲後にそのままヨーロッパまで飛行しドイツまたはその占領地に着陸することが可能な、長大な航続性能を持つ大型長距離爆撃機によるアメリカ本土空襲を計画した。 その後1943年には、日本陸海軍共同の計画委員会によって計画が承認され、中島飛行機はただちに日本とアメリカ本土の間の往復飛行が可能な6発エンジンを持つ大型長距離爆撃機「富嶽」の開発をはじめた。また同年中には専用の大出力エンジンの開発や、与圧キャビンなどの開発が開始されるとともに、東京都三鷹市に新工場の建設がはじめられた。 しかし1944年7月に、この計画の推進者の1人であった東條英機首相がサイパン島陥落の責任を取って辞任し、同時に連合国軍機による本土空襲の本格化に備えるための新型戦闘機の開発に資源を集中させるために、計画そのものが中止された。 このほかキ74を使った片道飛行による空襲や工作員派遣も構想されたが、実現に至らなかった。
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