その後のアメリカでの活動
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「上を向いて歩こう」の記事における「その後のアメリカでの活動」の解説
アメリカ合衆国ではその後、渡辺はま子のカバー「支那の夜(China Nights)」が最高58位、アルバム『Sukiyaki and Other Japanese Hits』(有名な「坂木九」の誤植は、このレコードである)も最高14位(いずれもビルボード誌)に止まった。次のシングル「九ちゃんの炭坑節(Tanko Bushi)」(こちらは日本でも発売された。アメリカでの片面は「東京五輪音頭」)も発売されたが、三井三池炭鉱で起こった爆発事故の影響で歌うことを自粛し、これに伴いアメリカでの活動も事実上終了した。その後にも契約が残っていたヨーロッパではそれらに次ぐシングルとして、中国の歌謡曲に英語詞をつけた「Rose, Rose, I Love You」(日本未発売)が発売された。キャピトル・レコードはビートルズのアメリカでのプロモーション以上に宣伝費用をかけたといわれるが、結局、アメリカでは一発屋に終わってしまった。 予定では、本格的に活動拠点を日本国外に移す計画もあったという。なお、坂本九がアメリカでの活動を終えたことで、それ以降ピンク・レディーが37位にランクインするまで、日本人歌手がBillboard Hot 100のランキングに入ることはなかった。 なお、1975年にはアメリカとの企画でアルバム「ターニング・ポイント」を制作。録音はアメリカワーナーブラザーズスタジオにて行われ、制作も全て現地スタッフによりおこなわれた。シングル「襟裳岬/若者たち」、アルバムがアメリカと日本で同時発売された。 1981年にはテイスト・オブ・ハニーが英語詞でカバーし、Billboard Hot 100で最高3位を獲得した。その際、テイスト・オブ・ハニーと坂本九は冗談のようだが一緒にすき焼きを食べている。 柏木由紀子によると、坂本九と結婚後、柏木と坂本がプライベートでロサンゼルスに行ってアーティストのショーを観客席で見ていたとき、「SUKIYAKIのキュー・サカモトが来ている」と司会者に紹介されたという。
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その後のアメリカでの活動
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「W・エドワーズ・デミング」の記事における「その後のアメリカでの活動」の解説
その後、デミングはワシントンD.C.の自宅に戻り、アメリカ国内でのコンサルティングをするようになったが、ほとんど無名だった。1980年、NBCが If Japan can... Why can't we?(日本にできて、なぜ我々にできないのか?)というドキュメンタリーを放送し、脚光を浴びることとなった。 フォード・モーターは、アメリカ企業としては比較的初期にデミングに助言を求めていた。1981年、フォードはデミングに改善を依頼した。フォードの売り上げは下落傾向にあり、1979年から1982年の間に30億ドルの損失を計上していた。デミングは企業風土と経営方針を尋ねた。フォードが驚いたのは、デミングが品質ではなく経営のことを語りだしたことである。彼は、よりよい自動車を開発するときの問題の85%はマネジメントの責任だとした。1982年以降、フォードは高収益の自動車(トーラスやセーブル)を送り出すこととなった。フォード会長 Donald Peterson は、Autoweek Magazine への手紙の中で、「我々がフォードの中に品質文化を構築し、様々な変革を行ってきた根底には、デミング博士の教えがある」と記している。1986年までにフォードは、アメリカで最も収益性の高い自動車会社となった。1920年代以降初めて、同社の利益はライバルであるゼネラルモーターズを追い抜いた。その後フォードはアメリカの自動車産業の改善をリードし続けた。後のフォードを見れば、それが一時的な幸運などではなかったことがわかる。 1982年、デミングの本 Quality, Productivity, and Competitive Position が MIT Center for Advanced Engineering から出版された。これは、1986年に Out of the Crisis と改名されている。デミングはこの中でマネジメントの14のポイントと呼ばれる理論を述べている。マネジメントが将来計画を立案するのに失敗すると、それが市場での損失に繋がり、さらに従業員らの解雇に繋がる。マネジメントは、四半期配当によってだけでなく、ビジネスを継続し、投資を保護し、将来の配当を確実なものとし、製品とサービスの改善を通してより多くの仕事を提供する革新的な計画によって判断されなければならない。「新しい学習と新しい哲学への長期的関与は、変革を必要とするマネジメントに必須である。臆病者や敏速な結果を期待している人々は、最終的には失望することになる」 デミングは、オレゴン州立大学の名誉博士号など様々な賞や栄誉を手にしている。1987年、「統計的手法を広め、標本化手法を考案し、品質向上のためのマネジメント哲学を企業や政府に広めたことに対して」アメリカ国家技術賞を受賞した。1988年、全米科学アカデミーから Distinguished Career in Science を授与された。 1993年、デミングは最後の著書 The New Economics for Industry, Government, Education を出版した。同書では、マネジメントの14のポイントだけでなく、System of Profound Knowledge™(深遠なる知識の体系)が述べられている。そこにはまた、グループベースの教育法や、個人の能力を評価しないマネジメントなどが述べられている。 1993年12月20日午前3時ごろ、デミングはワシントンD.C.の自宅で老衰により静かに死去した。彼の家族はその死を傍で看取った。
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