その後のアカディア
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「ファンディ湾方面作戦」の記事における「その後のアカディア」の解説
この作戦が終わるまでに、7000人以上のアカディア人がニューイングランドに追放された。追放が決まった1755年の翌年から、フランス人、インディアン、そしてアカディア人が4年間にわたってイギリスに、例えばルーネンバーグ奇襲などのゲリラ戦を仕掛け続けた。
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その後のアカディア
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「チェダブクトの戦い」の記事における「その後のアカディア」の解説
降伏により、総督と兵士たちは船でケベックに追われた。降伏前に約束されていた 住民は、平穏に暮らし、財産を奪われることもなく、女性は性的ないたずらをされるべきではない 住民は、宗教に関しても妨害されてはならず、教会も、乱暴狼藉を受けるべきではない これらの約束事にもかかわらず、ニューイングランド軍は、降伏の後、12日間に及ぶ略奪行為を行った。彼らは砦から大砲を外して、他の砦らしきものにかまわず狙いを付けた(このため矢来が真っ二つになった)。この略奪がすべて終わった後、フィップスは農民に、国王ウィリアム3世と女王メアリー2世に忠誠を誓わせようとしたが、農民たちは難色を示した。そこでフィップスは、教会や、行政や軍事の権力者を、ボストンに連れ帰ることで、彼らの権限を取り除いてしまおうとした。権力者とは、2人の聖職者プチとトルーヴェ、総督のメネヴァル、そして58人の兵である。ポートロワイヤルを発つ前に、フィップスは、臨時政府を作って、アカディアの指導者による議会を作ろうともした。 翌年、アカディアの新総督であるエドワード・ティングは、ポートロワイヤルに向かっていたところを、フランスのフリゲート「ソレイユ・ダフリカ」に拿捕された。この船には、フランス人の新総督であるロビノー・ド・ヴィユボンが乗っていた。ティングと共にいたジョン・アルデンは、捕虜交換の知らせを持ってボストンに送り返され、ヴィユボンは、前年に捕囚されていた60人ばかりの兵を解放した。 カンパニー・オブ・アカディアは、様々な難題を抱え、1702年に解散した。また、サンルイ砦は1718年のカンゾ襲撃(スクウィラル・アフェア)で崩壊した。
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