その後のこま子とは? わかりやすく解説

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その後のこま子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/24 14:43 UTC 版)

島崎こま子」の記事における「その後のこま子」の解説

1919年12月こま子秀雄とともに帰京し自由学園羽仁もと子西丸哲三とも)宅に賄婦として住み込んだその後こま子キリスト教に入信。その縁で京都大学社会研究会の賄婦となり、無産運動参加する河上肇門弟学生だった長谷川博35歳結婚して長谷川こま子となる。しかし、夫の博は1928年三・一五事件検挙投獄された。 こま子解放運動犠牲者救援会現在の日本国民救援会)を通じて救援活動奔走した1929年には夫が尊敬していた山本宣治右翼暗殺されたため、こま子は宣治の葬儀参列している。夫が出獄後1933年に娘の紅子(こうこ)をもうけるが、離婚することとなった上京して運動続けるが、警察追われ、また赤貧のため子どもを抱えたまま肋膜炎患い東京都板橋区養育院1937年3月3日収容された。このことは、同月6日7日東京日日新聞記事島崎藤村「新生」モデル20年後として報じられた。また林芙美子も、同月7日婦人公論記者としてインタビューをしている。は皮肉を込めてセンエツながら、日本ペン倶楽部会長さん(注:島崎藤村)は、『償ひ』をして、どうぞこま子さんを幸福にしてあげて下さい」という趣旨記事書いた。この記事受けてのことか分からないが、藤村は、当時の妻静子50円持たせて病院訪問させている(当時銭湯料金が6銭。郵便料金葉書2銭、封書4銭。米60kg(1俵)が約13円である)。静子こま子に会うことなく守衛室に金を預けて帰った藤村息子に「今頃になって古疵触られるのも嫌なものだが、よほど俺に困ってもらわなくちゃならないものかねえ」とぼやいたこま子は「悲劇自伝」を「中央公論5月6月号に発表戦後妻籠当時長野県西筑摩郡吾妻村。現・木曽郡南木曽町)に住んだこま子は、「いつも和服で、言葉美しく静かな気品」があったと報じられている。作家松田解子は「ひそやかさの中にまっとうさと輝かしさのある人でした」、「人間の幸せとは、美しいものを美しといえる嬉しいことを嬉しといえることでしょうねぇ」とこま子語っていたと述べている。 こま子妻籠20年その後東京22年過ごした1979年85歳病没した。

※この「その後のこま子」の解説は、「島崎こま子」の解説の一部です。
「その後のこま子」を含む「島崎こま子」の記事については、「島崎こま子」の概要を参照ください。

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