その後のこま子
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1919年12月、こま子は秀雄とともに帰京し、自由学園の羽仁もと子(西丸哲三とも)宅に賄婦として住み込んだ。 その後、こま子はキリスト教に入信。その縁で京都大学の社会研究会の賄婦となり、無産運動に参加する。河上肇門弟の学生だった長谷川博と35歳で結婚して、長谷川こま子となる。しかし、夫の博は1928年に三・一五事件で検挙。投獄された。 こま子は解放運動犠牲者救援会(現在の日本国民救援会)を通じて救援活動に奔走した。1929年には夫が尊敬していた山本宣治が右翼に暗殺されたため、こま子は宣治の葬儀に参列している。夫が出獄後、1933年に娘の紅子(こうこ)をもうけるが、離婚することとなった。 上京して運動を続けるが、警察に追われ、また赤貧のため子どもを抱えたまま肋膜炎を患い、東京都板橋区の養育院に1937年3月3日に収容された。このことは、同月6日、7日付東京日日新聞記事で島崎藤村の「新生」のモデルの20年後として報じられた。また林芙美子も、同月7日『婦人公論』記者としてインタビューをしている。林は皮肉を込めて「センエツながら、日本ペン倶楽部の会長さん(注:島崎藤村)は、『償ひ』をして、どうぞこま子さんを幸福にしてあげて下さい」という趣旨の記事を書いた。この記事を受けてのことか分からないが、藤村は、当時の妻静子に50円を持たせて病院を訪問させている(当時、銭湯の料金が6銭。郵便料金は葉書2銭、封書4銭。米60kg(1俵)が約13円である)。静子はこま子に会うことなく、守衛室に金を預けて帰った。藤村は息子に「今頃になって、古疵に触られるのも嫌なものだが、よほど俺に困ってもらわなくちゃならないものかねえ」とぼやいた。 こま子は「悲劇の自伝」を「中央公論」5月~6月号に発表。 戦後、妻籠(当時は長野県西筑摩郡吾妻村。現・木曽郡南木曽町)に住んだこま子は、「いつも和服で、言葉が美しく、静かな気品」があったと報じられている。作家の松田解子は「ひそやかさの中にまっとうさと輝かしさのある人でした」、「人間の幸せとは、美しいものを美しいといえる、嬉しいことを嬉しいといえることでしょうねぇ」とこま子が語っていたと述べている。 こま子は妻籠に20年、その後東京で22年を過ごした。1979年に85歳で病没した。
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