その後の『Tennis for Two』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 09:56 UTC 版)
「Tennis for Two」の記事における「その後の『Tennis for Two』」の解説
『Tennis for Two』は大評判となり、これを遊ぶ為に何時間も並ぶ人が出た程だった。翌1959年にはより大きな15インチオシロスコープで公開され、重力の違う惑星上ではどう違ってくるかという様子も展示された。しかし翌年までには別の研究に使う為、解体された。 電子回路の特許を20個持っていたヒギンボーサムは、『Tennis for Two』については権利を主張する事が無かった。またこれを継続しようとする者や、ゲームビジネスに使おうとする者も現れず、『Tennis for Two』の存在は長年埋もれたままになった。 1982年2月頃、ビデオゲームに関する裁判でヒギンボーサム自身が証言したのが、再度脚光を浴びるきっかけになったと言われている。世界初のゲーム歴史研究家と言われるDavid Ahlが同年11月、コンピュータ雑誌に記事を載せた事で、広く知られるようになった。
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