その後のアカディア人
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「セントローレンス湾方面作戦」の記事における「その後のアカディア人」の解説
集落が壊されたことで、漁業にも大規模な影響が出た。ケベックへの供給も断たれ、その年は食料難に見舞われた。 アカディア人たちもまた、かろうじてシャリュール湾沿岸やレスティグーシュ川の流域に移住を続けていた。レスティグーシュ川には、ボワシェベールも難民キャンプをプチロシェル(現在のケベック州ポワント・ア・ラ・クロワ近く)に設けていた。ウルフがここの任務を終えた後も、1760年のレスティグーシュの戦いにより、ボワシェベールのキャンプにいた数百人のアカディア人が捕虜となった。この時、大尉ロデリック・マッケンジーの軍が330人のアカディア人を捕囚したと言われる。
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その後のアカディア人
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「セントジョン川方面作戦」の記事における「その後のアカディア人」の解説
イギリス軍の補給路断絶作戦で、集落に残ったわずかなアカディア人は食糧不足にあえいだ。ヌーベルフランス総督ヴォードルイユは、1,600人のアカディア人が、1759年にケベックに移住してきたと伝えている。同じ1759年の冬、ケベックも食糧不足で、天然痘が大流行し、これでアカディアからの移住者300人以上が命を落とした。 同じ1759年の冬、セントジョン地域からケベックに来た難民29人がセントローレンス川を上り、ベカンクールに自分たちの集落を作った。 エイブラハム平原の戦いの後、1759年9月18日にアカディア人の抵抗も終わった。セントジョン川のマリシート族とアカディア人はフレデリック砦と、カンバーランド砦でイギリス軍に降伏した。1760年の1月2日、フレデリック砦に集まったアカディア人の男の大部分が、その翌日には女と子供とが集まって、船でハリファックスに向かった。アカディア人たちは、ハリファックスに到着してから1週間以内に、フランスへ向かった。 1762年、セントジョン川の駐屯隊長を務めていた中尉ギルフォード・スタッドホルムは、ニューイングランドから新しくやって来る入植者のために、残っていたアカディア人を移住させようとしたが、これはうまく行かなかった。
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