その後のアカディアとニューイングランド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 20:43 UTC 版)
「グランプレ奇襲」の記事における「その後のアカディアとニューイングランド」の解説
チャーチが連れて来た捕虜はボストンに送られ、捕虜たちは、当初は比較的自由にボストン市内を歩くことができた。しかし、マサチューセッツ議会の議員がこれに不平を持ち出し、捕虜たちは今度はウィリアム城(英語版)に監禁された。1705年と1706年とに、ディアフィールド奇襲でカナダに連行された捕虜と交換されたが、総督ダドリーが、交換の手始めに、フランスの私掠船の乗組員、ピエール・メゾネ・ディ・バティストの釈放を拒否したことから、交渉がややこしくなった。バティストは結局、ノエル・ドワロンや他の捕虜たちと共に、ディアフィールドの牧師ジョン・ウィリアムズと交換された。 チャーチの奇襲が直接もたらした効果は長続きしなかった。穀物や貯蔵食物が台無しにされたため、アカディアはその冬小麦が不足したが、大々的な食料難には至らなかった。グランプレは再建され、堤防も修復されて、1706年には十分な収穫があった。しかし奇襲の記憶は人々の中に残った。1740年代ごろまで(アカディアがイギリス領ノバスコシアになった後)は、グランプレの住民はイングランド軍の再襲来を恐れ、イギリス当局への対応には慎重であった。 ダドリーが、チャーチにポートロワイヤル攻撃の許可を与えなかったのには、政治的ななりゆきによるものだった。ダドリーは政敵から、アカディアとの密貿易による利益のため、ポートロワイヤルを保護しているとして告発されていた。この証拠不十分な申し立ては数年に及び、結局ダドリーは、彼らへの対抗策として、1707年にポートロワイヤルの包囲戦を行った。しかしこれは失敗に終わった。
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