ラムザイとその後のアカディア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/28 15:03 UTC 版)
「ダンヴィユ公爵の遠征」の記事における「ラムザイとその後のアカディア」の解説
1746年秋、フランスが遠征隊を送り込んだことにより、マサチューセッツ湾直轄植民地の総督ウィリアム・シャーリーは、イギリスによるアカディア支配を守るため、同年の12月に、大佐のアーサー・ノーブルとニューイングランド兵、そしてアナポリスの駐屯兵数名をアカディアに派遣した。彼らは困難をきわめつつも、グランプレのミナス地域にたどり着き、ミナスの民家に分泊した。ノーブルが、ラムザイとの戦闘を春まで延長することにしたからである。誰もが、雪中での戦闘は不可能だと思っていたが、ラムザイは違っていた。マサチューセッツ軍は、ラムザイの居場所を知るとすぐに夜襲を仕掛けたため、アカディア人から報復の可能性を警告されたが、ノーブルはたかをくくっていた。雪が5メートルも積もっており、おそらく兵もそういないだろうと考えていたのである。しかし2月の始め、ニューイングランド軍は、ラムザイ軍に包囲されているのに気付いた。この時60人のイギリス兵が殺され、70人が負傷し、大尉のベンジャミン・ゴールズウェイトは降伏した。 ダンヴィユの遠征の失敗は、アカディア人の戦争への加担に深刻な含みをもたらすことになった。彼らのフランス勝つべしの思いは揺らぎ、遠征失敗の後、アカディア総督のポール・マスカレンは、アカディア人たちに、フランスの支配下に戻ろうなどという夢は避けるようにと通告した"。あるフランス人士官は、このように記している。「ラムザイがアナポリスロイヤルを撤退するとき、アカディア人たちは不安に陥り、失望した。これで自分たちは、イギリスから懲罰を受けることになると思ったのである」 ダンヴィユ遠征隊の野営地は、現在カナダ国定史跡となっている。 野営地跡にあるダンヴィユ遠征隊の記念碑 記念碑の銘板
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