W・エドワーズ・デミングとは? わかりやすく解説

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W・エドワーズ・デミング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/20 09:12 UTC 版)

ウィリアム・エドワーズ・デミング
William Edwards Deming
W・エドワーズ・デミング
生誕 1900年10月14日
アイオワ州スーシティ市
死没 (1993-12-20) 1993年12月20日(93歳没)
コロンビア特別区ワシントン市
居住 アメリカ合衆国
国籍 アメリカ合衆国
研究分野 統計学
研究機関 農務省
国勢調査局
ニューヨーク大学経営大学院
出身校 ワイオミング大学卒業
コロラド大学ボルダー校修了
イェール大学修了
主な業績 統計的手法を用いた品質管理の提唱
プロジェクト:人物伝
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ウィリアム・エドワーズ・デミング英語William Edwards Deming1900年10月14日 - 1993年12月20日)は、アメリカ合衆国統計学者著述家、講演者、コンサルタントである。学位博士イェール大学1928年)。

ニューヨーク大学経営大学院(現在のスターン経営大学院教授などを歴任した。

概要

第二次世界大戦前後にアメリカの生産性向上に尽力した。また、特に日本に限った話としては、その日本への影響でよく知られている。彼は1950年昭和25年)から日本の企業経営者に、設計/製品品質/製品検査/販売などを強化する方法を伝授していった[1]。彼が伝授した方法は、分散分析仮説検定といった統計学的手法の応用などである。デミングは、製造業ビジネスに最も影響を与えた外国人であったため、日本では以前から英雄的な捉え方をされていたが、アメリカでの認知は彼の死の直前にやっと広まり始めたところであった[2]メイド・イン・ジャパンの成功がデミングに負うところが大きいと知ったアメリカ工業界は、今さらながら教えを請おうとしたが、自分の考えに過去冷淡であったことから、デミングはあまり熱心に関わろうとはしなかった。

来歴

アイオワ州スーシティ生まれ。1921年、ワイオミング大学電気工学の学士号を取得、1925年、コロラド大学ボルダー校物理学数学の修士号、1928年、イェール大学で物理学と数学の博士号を取得した。イェール大学在学中にベル研究所のインターンシップを獲得。卒業後、米農務省および国勢調査部門で働く。ダグラス・マッカーサー将軍の下で日本政府の国勢調査コンサルタントを務め、統計的プロセス管理手法を日本の企業経営者に教えた。その後も何度も日本に赴き、助言を与えると共に、ベル研究所でウォルター・A・シューハートから学んだ技法を適用した結果である経済成長の様子を観察した。後にニューヨーク大学経営大学院の教授となり、同時に米政府の個人コンサルタントとなった。

デミングの著書 Out of the Crisis (1982–1986:邦訳は、成沢俊子+漆嶋稔訳『危機からの脱出 Ⅰ・Ⅱ』日経BPクラシックス)と The New Economics for Industry, Government, Education (1993) では、彼の理論である Profound Knowledge™ とマネジメントの14のポイントが示されている(後述)。フルートとドラム演奏を趣味とし、作曲や編曲も行った[3]

1993年、ワシントンD.C.に W. Edwards Deming Institute を設立。また、アメリカ議会図書館にはデミングコレクションが収蔵されており、多数の音声テープとビデオテープも含まれている。W. Edwards Deming Institute の目的は Profound Knowledge™ の産業への適用の研究による繁栄と平和の追求である[4]

幼少期と初期の仕事

アイオワ州スーシティで生まれたデミングは、同じアイオワ州 Polk City にある祖父の養鶏場で育ち、その後ワイオミング州パウエルに移住した。彼の父もウィリアムだったため、エドワーズと呼ばれるようになった(エドワーズは母の旧姓)[5]1917年、ワイオミング州ララミーワイオミング大学に入学し、1921年電気工学の学士号を得て卒業。1925年にはコロラド大学ボルダー校で修士号を取得し、1928年にはイェール大学で博士号を取得した。どちらでも数学数理物理学の学位を取得している。数理物理学者としてアメリカ農務省に勤務し(1927年 - 1939年)、統計アドバイザーとしてアメリカ国勢調査局に勤務した(1939年 - 1945年)。その後ニューヨーク大学経営大学院で統計学の教授を務めた(1946年 - 1993年)。また、コロンビア大学の経営学部大学院でも教えている(1988年 - 1993年)。また、企業のコンサルタントも務めた。

1927年、デミングは農務省の C.H. Kunsman により、ベル研究所ウォルター・A・シューハートに紹介され、シューハートの業績に大いに触発された。シューハートは製造工程の統計的制御手法の提唱者であり、管理図などのツールを考案していた。このため、デミングも製造業や経営に統計的手法を応用する方向に興味を移し始めた。シューハートによる分散の共通原因と特殊原因の考え方は、デミングの経営理論にも取り入れられている。デミングはこれが単に製造プロセスに適用できるだけでなく、企業の経営にも生かせると考えた。この洞察により、1950年以降の産業への多大な影響が可能となったのである。[6]

デミングは農務省でシューハートが行った一連の講義を本にまとめ Statistical Method from the Viewpoint of Quality Control として 1939年に出版した。デミングは、シューハートから多くを学んだ理由を後のインタビューで、シューハートが聡明である一方で「物事を難しくする特異な才能」を持っていたためだと説明している。このためデミングはシューハートの考えをコピーし、それを彼なりのわかり易い方法で提示することに時間を費やした[7]

デミングは標本化技法を開発し、それが1940年の国勢調査に使われた。第二次世界大戦中、デミングは Emergency Technical Committee の一員として、H.F. Dodge、A.G. Ashcroft、Leslie E. Simon、R.E. Wareham、John Gaillard と共に働き、戦時標準規格(ANSI ZI.1-3 として1943年発表)の策定を行った[8]。また、戦時動員された工場作業員に対して統計的プロセス制御技法を教えた。統計的技法は第二次世界大戦中は広く適用されたが、戦後アメリカ経済が強くなるに従って数年で省みられなくなった。

日本での活動

1950年東京都でのセミナーにて

第二次世界大戦後の1947年昭和22年)、デミングは連合国軍占領下の日本1951年(昭和26年)に行われる国勢調査の計画立案に関わった。デミングはGHQから現地での国勢調査の支援を依頼された。彼が日本にいた頃、社会への関与や品質管理技術の専門知識などもあって、日本科学技術連盟(JUSE、日科技連)から招待されることになった。[5]

日科技連のメンバーはシューハートの技法を学んでおり、日本の復興のために統計的制御の専門家の教えが必要と考えていた。1950年(昭和25年)6月から8月にかけて、デミングは数百名の技術者、経営者、学者に統計的プロセス制御と品質の概念に関する講義を行った。また、少なくとも1回は企業経営者向けの講義を行っている[9]。デミングが企業経営者に伝えたことは、品質の向上によって支出が減り、生産性と市場シェアが向上するということであった[1]。最も有名な講演は1950年(昭和25年)8月に箱根で行われた「経営者のための品質管理講習会1日コース」である。

日本の製造業者はデミングの技法を広く適用し、コスト削減により、日本製品が世界を席捲することの要因の一つになった。

1950年(昭和25年)の講演は書籍としても発売された、そこで日科技連はデミングの友情と業績を永く記念するため、その印税基金とし、デミング賞を創設した[10][11]

その後のアメリカでの活動

その後、デミングはワシントンD.C.の自宅に戻り、アメリカ国内でのコンサルティングをするようになったが、ほとんど無名だった。1980年NBCIf Japan can... Why can't we?(日本にできて、なぜ我々にできないのか?)というドキュメンタリーを放送し、脚光を浴びることとなった。

フォード・モーターは、アメリカ企業としては比較的初期にデミングに助言を求めていた。1981年、フォードはデミングに改善を依頼した。フォードの売り上げは下落傾向にあり、1979年から1982年の間に30億ドルの損失を計上していた。デミングは企業風土と経営方針を尋ねた。フォードが驚いたのは、デミングが品質ではなく経営のことを語りだしたことである。彼は、よりよい自動車を開発するときの問題の85%はマネジメントの責任だとした。1982年以降、フォードは高収益の自動車(トーラスやセーブル)を送り出すこととなった。フォード会長 Donald Peterson は、Autoweek Magazine への手紙の中で、「我々がフォードの中に品質文化を構築し、様々な変革を行ってきた根底には、デミング博士の教えがある」と記している[12]。1986年までにフォードは、アメリカで最も収益性の高い自動車会社となった。1920年代以降初めて、同社の利益はライバルであるゼネラルモーターズを追い抜いた。その後フォードはアメリカの自動車産業の改善をリードし続けた。後のフォードを見れば、それが一時的な幸運などではなかったことがわかる。

1982年、デミングの本 Quality, Productivity, and Competitive PositionMIT Center for Advanced Engineering から出版された。これは、1986年に Out of the Crisis (邦題『危機からの脱出』日経BPクラシックス)と改名されている。デミングはこの中でマネジメントの14のポイントと呼ばれる理論を述べている。マネジメントが将来計画を立案するのに失敗すると、それが市場での損失に繋がり、さらに従業員らの解雇に繋がる。マネジメントは、四半期配当によってだけでなく、ビジネスを継続し、投資を保護し、将来の配当を確実なものとし、製品とサービスの改善を通してより多くの仕事を提供する革新的な計画によって判断されなければならない。「新しい学習と新しい哲学への長期的関与は、変革を必要とするマネジメントに必須である。臆病者や敏速な結果を期待している人々は、最終的には失望することになる」

デミングは、オレゴン州立大学の名誉博士号など様々な賞や栄誉を手にしている。1987年、「統計的手法を広め、標本化手法を考案し、品質向上のためのマネジメント哲学を企業や政府に広めたことに対して」アメリカ国家技術賞を受賞した。1988年全米科学アカデミーから Distinguished Career in Science を授与された。[5]

1993年、デミングは最後の著書 The New Economics for Industry, Government, Education を出版した。同書では、マネジメントの14のポイントだけでなく、System of Profound Knowledge™(深遠なる知識の体系)が述べられている。そこにはまた、グループベースの教育法や、個人の能力を評価しないマネジメントなどが述べられている。

1993年12月20日午前3時ごろ、デミングはワシントンD.C.の自宅で老衰により静かに死去した。彼の家族はその死を傍で看取った。[13]

デミング哲学の概要

W・エドワーズ・デミングの哲学(思想)をまとめると次のようになる。

「デミング博士は、マネジメントの適切な原則を採用することにより、組織を向上させ、同時に(再作業、訴訟沙汰を減らし、顧客満足度を向上させることで)コストを削減できるとおっしゃった。鍵となるのは、継続的な改善を行い、製造業を断片の集まりではなくシステムとみなすことである」[14]

1970年代、デミング哲学は日本で次のように (a)対(b) の形でまとめられている。

(a)
品質を次のように定義したとき(Results of work efforts = 作業努力の結果、Total costs = 全体コスト)
全般国立図書館学術データベース人物その他




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