その後のアレクサンドリアの諸学校と諸図書館
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「アレクサンドリア図書館」の記事における「その後のアレクサンドリアの諸学校と諸図書館」の解説
ただしそれでも、ヒュパティアがアレクサンドリアの最後の「異教徒」であったわけでも、最後の新プラトン主義の哲学者であったわけでもない。新プラトン主義と「異教」はともにアレクサンドリアと、さらには東地中海全域で、彼女の死後数世紀にわたって生き残っていた。イギリスのエジプト学者シャルロット・ブース(英語版)は、ヒュパティアの死後間もなく、アレクサンドリアのコム・エル=ディッカ(Kom el-Dikka)に多数の新たな学門的講堂(academic lecture halls)が建設されたことは、哲学が確かにアレクサンドリアの学校で教え続けられていたことを示していると書いている。5世紀後半の著作家であるザカリアス・スコラティクス(英語版)とガザのアエネアス(英語版)は共に「ムセイオン」についてある種の物理的な空間を占めるものとして語っている。考古学者たちはこの近郊の地域・この時代に年代づけられるの講堂(lecture halls)を特定しているが、しかしその遺跡はプトレマイオス朝のムセイオンではない。あるいはこれは、この著作家たちが言及する「ムセイオン」であったかもしれない。 642年、アレクサンドリアはアムル・ブン・アル=アース率いるムスリムの軍隊に征服された(英語版)。後世のいくつかのアラビア語史料が、アレクサンドリア図書館がカリフ(ハリーファ)のウマル・ブン・ハッターブの命令によって破壊されたと説明している。13世紀に著作活動を行ったバル=ヘブラエウス(英語版)は、ウマルがヨハネス・ピロポノス(Yaḥyā al-Naḥwī)に言った「もしその書籍の数々がクルアーン(コーラン)と合致するならば、我々には不要だ。もしそれがクルアーンと反するならば、それは破壊せよ」という言葉を引用している。1713年にこの件について見解を述べた聖職者ウジェーヌ・ルノドー(英語版)を含む後世の学者たちは、物語が書き留められるまでの時間的懸隔の大きさと、様々な著作者の政治的動機を考えて、これらの物語に懐疑的である
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