その後のイオニア諸島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/13 03:44 UTC 版)
「フランス領イオニア諸島」の記事における「その後のイオニア諸島」の解説
フランス軍がイオニア諸島から追い出されたことにより、ロシア、オスマン帝国軍によってイオニア共和国が設立され、ケルキラ島に中央政府「元老院(セナート)」が置かれる事になり、シピリドン・テオトキスが元首となった。これを受けたイオニア諸島の人々は真の独立がイオニア諸島にもたらされたと考えていた。 ケルキラの中央政府は1799年5月、憲法制定のための委員を選出したが、ロシア、オスマン帝国の間ではイオニア諸島における方針が決定されていない状況であった。9月、委員会が憲法草案をまとめロシア、オスマン帝国によ承認を得るためにイスタンブール、サンクトペテルブルクへそれぞれ向かった。 しかし、イスタンブールへ向かったイオニア諸島全権代表はオスマン帝国の強硬姿勢に押し切られ、反動的な憲法へ修正することを独自に承諾、イオニア諸島はオスマン帝国の従属地で貢納することまで決定された。 結局、憲法草案は幻に終わり、新たな「ビザンティン憲法」が1800年4月1日にオスマン帝国とイオニア諸島貴族の間で調印され、さらにロシア、オスマン帝国間でコンスタンティノープル協定が結ばれたことにより「イオニア七島連邦国」が成立することとなる。
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