その後のイランと各地のニザール派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 10:24 UTC 版)
「ニザール派」の記事における「その後のイランと各地のニザール派」の解説
モンゴル帝国によるニザール派国家の滅亡は、イランのニザール派を苦況に陥れた。アラムート周辺以外の城砦も次々に陥落ないし降伏し、散在するニザール派の村々の多くは四散、あるいはスンナ派への改宗を余儀なくされ、可能なものはインドやバダフシャーンのニザール派コミュニティのもとへと旅立ったのである。しかし、イルハン朝統治下タキーヤによりニザール派信仰を秘匿し、スンナ派を装う者も少なくなかった。 アラムートのイマーム位は、ルクヌッディーン・フールシャーがモンゴル高原に没したあと、ひそかに幼い息子(ないしは孫)シャムス・アッディーン・ムハンマドが継いだ。1275年ころにニザール派はアラムートをごく一時的に奪還した。シャムス・アッディーン・ムハンマドはタブリーズ周辺のアゼルバイジャン地方に身を隠し1310年ころに没している。中心地イランのニザール派は政権としては崩壊したが、ニザール派ダアワは生き延び、ダイラムやクーヒスターンにおいては独自の勢力を築くこともあった。中央アジア山岳地方バダフシャーンのニザール派コミュニティはミールやピールといった称号の統治者のもとでティムール朝やシャイバーン朝の圧力に耐えて19世紀末までショグナーンを中心に地方政権を維持、ほかにもニーシャープール、フンザ、ギルギットなどに生活を営んだ。インド方面のニザール派もこのころの詳細はほとんどわからないもののピールの指導のもとコミュニティを維持し、当初のムルターンを中心とするスィンドからグジャラート、デカン、デリー方面に拡大しつつあった(インドのニザール派についてはイスマーイール派およびホージャー派も参照)。 こうした中でアゼルバイジャンのイマーム位は系統もはっきりせず、数代のうちにカースィム・シャー派とムハンマド・シャー派の二派に分かれている。ムハンマド・シャー派イマームは18世紀末に姿を消すが、カースィム・シャー派はその初期の動向ははっきりしないものの、現在のアーガー・ハーンに至るまでイマーム位を継承した。彼らはタキーヤを実践し、十二イマーム派やスンナ派のスーフィーのシャイフ(長)を装い、この時期以降、教義や伝承の面でスーフィー・タリーカ(≒教団)の著しい影響を受けることになる。彼らの活動は14世紀半ばころから再び史料にあらわれてくる。
※この「その後のイランと各地のニザール派」の解説は、「ニザール派」の解説の一部です。
「その後のイランと各地のニザール派」を含む「ニザール派」の記事については、「ニザール派」の概要を参照ください。
- その後のイランと各地のニザール派のページへのリンク