ムハンマド・シャー派とは? わかりやすく解説

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ムハンマド・シャー派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 10:24 UTC 版)

ニザール派」の記事における「ムハンマド・シャー派」の解説

1375年ころ、ムハンマド・シャー派のイマーム・フダーワンド・ムハンマドがあらわれダイラム中心に活動したおそらくはアラムート周辺ダイラムでは、政権滅亡後ニザール派勢力ムハンマド・シャー系)は活動しており、ザイド派アリー朝争っていたもの思われる。フダーワンド・ムハンマドはザイド派アリー朝のサイイド・アリー・キヤーに退けられティムール朝逃れスルターニーヤ軟禁された。彼の家系早くとも1489年までスルターニーヤに在った。同時期もダイラムでのニザール派活動継続されているが、サファヴィー朝中期頃までにほとんど姿を消す1507年にはムハンマド・シャー系イマーム・シャー・ラーズィー・アッディーンがバダフシャーンあらわれ勢力確立している。その子とも思われるムハンマド・シャー系でもっとも有名な16世紀初のイマーム、シャー・ターヒル・フサイニーは当初サファヴィー朝仕えたがシャー・イスマーイール1世疑い受けてイランから追放されデカン赴いたデカンアフマドナガルでは地元のニザーム・シャーヒー朝(Nizam Shahi dynasty)ブルハーン・ニザーム・シャー(英語版)に仕え十二イマーム派法学スーフィズム解説書著して学者として名を残す一方で政治家としても活躍した。ニザーム・シャー朝の十二イマーム派への改宗彼によるものといわれている。子孫はのちにアウランガーバード移ったバダフシャーンでのムハンマド・シャーイマームとして1660年ころフダーイ・バフシュが記録されており、インドにおいては1796年アミール・ムハンマド・バーキルが記録に残るムハンマド・シャー派の最後イマームである。

※この「ムハンマド・シャー派」の解説は、「ニザール派」の解説の一部です。
「ムハンマド・シャー派」を含む「ニザール派」の記事については、「ニザール派」の概要を参照ください。

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