ムハンマド・アル=サヌーシーの統治(1890-1911)
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「ダル・アル・クティ」の記事における「ムハンマド・アル=サヌーシーの統治(1890-1911)」の解説
1890年、ラビーフはより従順な寵臣を求め、コブルを退位させ、コブルの甥であるムハンマド・アル=サヌシーをダル・アル・クティとダル・ルンガ両方のシェイクに据えた :112 アル=サヌーシーは1850年にワダイで生まれ、サヌーシー教団の一員であった。. 彼の娘ハディージャはラビーフの息子、ファドラッラーと結婚した その後の数年間、ラビーフはサヌーシーの権限を強化し、拡大させ続けた。 コブルからのサヌーシーの支配に対する潜在的脅威は和らげられて、ダル・アル・クティの影響圏は現在の中央アフリカ共和国の多くを含むように拡大した。 ダル・アル・クティは1890年以前はワダイ帝国の属国だったが、以前の支配者たるワダイ帝国はラビーフがダル・アル・クティの支配圏を掌握することを抵抗なしには受け入れなかった。1894年10月、 ワダイ帝国の「アギド」、チェルフェッディーンは首都であるチャを破壊し、サヌーシーはンデレに新たな城砦都市、タタを建設するまで二年間巡行王権による支配を維持することを余儀なくされた。 1890年代になると、ダル・アル・クティはフランスからの圧力を受け始めた。様々な探検家がアフリカのこの地域に進出し、ウバンギ川とシャリ川の流域を結ぶルートを探した。レオン・ド・プマイラックやアルフレッド・フルノーなどで、その多くはダル・アル・クティに近い地域に到達し、1891年にはポール・クランペルが探検隊の仲間とともにサヌーシーに殺された。 1897年8月28日、 サヌーシーはモハメッド・アル=サヌーシー自身とエミール・ジャンティルが署名した通商・同盟条約によってダル・アル・クティをフランスの保護領とすることに同意した。この条約は1903年2月18日と1908年1月26日の2度にわたって改定されたが、ダル・アル・クティは1911年1月12日にサヌーシーが亡くなるまでその独立性を維持した。サヌーシーは少なくとも王位に就いたカムンとカンガヤの二人の息子とファドラッラーと結婚した娘ハディージャを残した。
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