ムハンマド・アリー朝と植民地化
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「エジプトの歴史」の記事における「ムハンマド・アリー朝と植民地化」の解説
1848年、ムハンマド・アリーは死去した。実績ある後継者であったムハンマド・アリーの息子イブラーヒーム・パシャが早世したため、ムハンマド=アリ-の孫アッバース・パシャ(アッバース・ヒルミ1世、在位:1848年-在位:1853年)が総督位を継承した。アッバース・パシャ以降のエジプト「総督」たちはオスマン帝国領という形式を破棄し、エジプトを正式な独立国とすることに多大な努力を払ったが、最終的にオスマン帝国が滅亡するまでそれが達成されることはなかった。 ムハンマド・アリー朝の歴代の総督(ワーリー)たちはそれぞれに独立、またはエジプトの法的地位の向上を目指した。アッバース・パシャはヨーロッパ諸国に対する不信感やムハンマド=アリーに対する反感などから、ムハンマド・アリー以来のヨーロッパ式の改革を止め、外国人顧問を追放し、学校の閉鎖などを行った。一方で、オスマン帝国がギュルハネ勅令(タンジマートと呼ばれる改革の端緒となった勅令)に基づいた法律をエジプトに適用することを求めた際には、鉄道建設の許可を軸にイギリスの歓心を買い、エジプトの特殊な地位に配慮する形に修正しての導入に成功した。 1853年に暗殺されたアッバース・パシャの跡を継いだサイード・パシャ(在位:1854年-1863年)は、アッバース・パシャとは逆にヨーロッパに範をとった諸改革を実施し、一般的に「開明君主」として高い評価を受けている。彼の改革には行政機関・軍におけるアラブ人の差別待遇の軽減、奴隷貿易の廃止、税制の再編や、私的土地所有権の確立などがあり、効果的でないものもかなりあったが、後のエジプト社会に大きな影響を残すことになる。とりわけ、彼の時代に地位を向上させたアラブ系士官たちは19世紀末の民族運動の中枢を担うことになった。サイードはフランスに接近してエジプトの外交的地位の向上を目指し、クリミア戦争ではオスマン帝国に兵力を提供して関係改善を図った。サイードの決断の中でも特に重大であったのはフランスの外交官フェルディナン・ド・レセップスへのスエズ運河建設許可であった。サイードはこの運河がエジプトの国力を増強し、その戦略的な重要性によってムハンマド=アリー朝の世襲総督位を安定させるであろうことを期待した。だが、運河建設はエジプトにとって極めて不利な条件で進められ、建設費の負担によって最終的に巨額の対外債務が残されることになった。 この頃、バルカン半島でのキリスト教徒諸民族の独立運動や、露土戦争などでオスマン帝国は苦境に立たされていた。エジプト総督となったイスマーイール・パシャ(在位:1863年-1879年)はワラキアとモルダヴィアやクレタ島での騒乱で軍事力を提供し、また賄賂や送金額の増額を提示してエジプトが諸外国と関税協定を締結する権利や総督(ワーリー)にかわってアズィーズの称号を用いるなどの諸特権を求めた。オスマン帝国は難色を示したが、困難な交渉によって1867年6月8日にアズィーズではなく副王(ヘティーヴ)の称号が認められ、エジプトが外国代表と「取り決め」を締結する権利などが認められた。 この頃にアメリカで起こった南北戦争は綿花ブームを引き起こし、その余波によって積極財政が可能となったイスマーイール・パシャはエジプトを「アフリカではなくヨーロッパの一部とする」と豪語し、大規模な開発事業を行い、スエズ運河の建設費用負担も履行することを約束した。しかし、南北戦争の終結と共に綿花ブームは去り収入が減少した。にも関わらず積極財政が継続され、対外債務が膨れ上がった。 1875から1876年にかけてエジプトは財政危機に陥り、イスマーイール・パシャは1876年11月にはスエズ運河株式をイギリスに売却するに至った。この行動はエジプトの財政危機を市場に印象付け、公債価格の暴落によってますます資金調達が困難になっていった。この財政危機と関連してイギリス政府からエジプト財政の調査を行うためにスティーヴン・ケイヴ(Stephen Cave)が派遣された。彼はエジプト財政が実質的に破綻状態であることを報告しており、これを機にヨーロッパ諸国によって公債整理委員会(英語版)(the Caisse de la Dette)が組織された。公債管理委員会はエジプトの内政に強力な干渉を行い、歳入の多くを返済に充てさせた。エジプト人の反感が強まる中、イスマーイール・パシャはヨーロッパ人の影響力を取り除くべく策動したが、イギリスとフランスがオスマン帝国にイスマーイール・パシャを退位させるように圧力をかけ、1879年6月26日にイスマーイール・パシャは退位させられた。 替わってタウフィーク・パシャ(在位:1879年-1892年)が即位したが、歳出削減の皺寄せを主に受けていたアラブ系士官たちは不満を強め、彼らの支持を受けた民族主義派の軍人アフマド・オラービー大佐が影響力を拡大させた。1881年1月、オラービーはチェルケス系・トルコ系士官を優遇し歳出削減の余波をアラブ系士官に集中させていた差別待遇の撤廃を政府に要求した。政府側はオラービー及び彼と同調したアリー・ファハミー大佐、アブドゥルアール・ヘルミー大佐を逮捕し排除することを目論んだが、彼らの指揮下の兵士たちは軍法会議の最中に乱入しオラービーらを実力で解放した。その後オラービーは副王タウフィーク・パシャに圧力をかけ内閣に民族主義派の人事を認めさせた。以降、オラービーらの主導と軍の圧力によって行われた一連の改革、体制転換運動はオラービー革命と呼ばれている。 オラービーはヨーロッパ人による債権管理体制の転覆を目指し、ヨーロッパに協調的であったタウフィーク・パシャは全くこれに抗う術がなかった。エジプトの副王に対する多大な影響力を背景として債権回収を目指していたイギリス・フランスはタウフィーク・パシャへのテコ入れに乗り出し、1882年7月に偶発的な暴動を切っ掛けにしてイギリス軍がエジプトに進駐し、オラービーらを排除した。以降、イギリスの総領事兼代表イヴリン・ベアリング(クローマー卿)がエジプトの内政を管理するようになり、エジプトは実質的にはイギリスの植民地支配下に置かれるようになった。このイギリスの支配体制は極めて特異な法的地位を持っており、エジプトは「オスマン帝国領」でありながら事実上独立したムハンマド・アリー朝の世襲君主(副王)の統治下に置かれ、実質的な支配は副王をコントロールするイギリスの高等弁務官の下にあった。インドルートの関係からエジプトを安定させる必要があったイギリスはエジプトの財政・経済の再建に尽力し、短期間のうちにそれを達成するとともに、官僚機構の綱紀粛正やインフラの整備を行った。また、エジプト支配化のスーダンで発生していたマフディーの反乱を、その指導者マフディー死後の1896年に鎮圧し、スーダンはエジプトとイギリスの「共同支配」の下に置かれることとなった(アングロ・エジプト・スーダン)。 イギリスの支配はエジプトの経済・民生の改善に大きな成果をもたらしたが、それでもなお植民地支配の一形態であることには違いなかった。エジプトにはイギリスの紡績産業の原料供給地としての役割が期待され、イギリスの統治を通じてエジプト経済のモノカルチャー化が進展し、20世紀初頭にはエジプトの輸出における綿花の割合は80パーセントを超えた。これはエジプト経済の構造的問題として後に深刻な影響を残すこととなる。 イギリスはエジプトの内政に躊躇なく介入したが、一方で言論の自由を保障してもいたため、イギリスの支配下でエジプトの言論活動はむしろ活発化した。外国支配への反発は根強く、またムハンマド・アリー朝の副王アッバース・ヒルミ2世(在位:1892年-1914年)もイギリス支配からの脱却を志向した。しかし、民族主義を奉ずるアラブ系の言論人と「外国人」の王家であるムハンマド・アリー朝は連携を欠いた。 1914年6月28日にオーストリア・ハンガリー二重帝国領サライェヴォで発生したオーストリア皇太子フェルディナンド2世の暗殺事件(サライェヴォ事件)によって協商諸国(イギリス・フランス・ロシア)と同盟側(ドイツ・二重帝国)の間で第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国は同盟側に立って参戦し、さらにエジプト副王アッバース・ヒルミ2世もこれを機としてイギリス支配への対抗を国民に呼びかけた。これに対してイギリスはアッバース・ヒルミ2世を退位に追い込み、エジプトをオスマン帝国の宗主権から切り離して保護国とすることを一方的に宣言した。第一次世界大戦が協商諸国の勝利に終わり、オスマン帝国も消滅したことでこの処置は確定した。
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