ムハンマド・アリー・ハーンの治世と内外における危機
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「カルナータカ太守」の記事における「ムハンマド・アリー・ハーンの治世と内外における危機」の解説
ムハンマド・アリー・ハーンの治世は46年に及び、カルナータカ地方政権は依然として南インドに広大な領土を領有していたが、彼はムガル帝国の主権を認め、皇帝シャー・アーラム2世と書簡のやり取りをしていた。 1760年、ムハンマド・アリー・ハーンは皇帝シャー・アーラム2世より、「ワッラー・ジャー」の称号を賜った。この称号は彼の一族の家名であるワッラー・ジャー家となり、アンワーリーヤ朝は別名ワッラー・ジャー朝とも呼ばれるようになった。 だが、ムハンマド・アリー・ハーンは第二次カーナティック戦争中にイギリスから軍事的援助を受けていたが、その援助にかかる費用はムハンマド・アリー・ハーンが負担することとなっていた。そのうえ、イギリスはカルナータカ太守があまり関与していない第三次戦争に関しても、太守の領土の保全に尽力したと主張してその支払いを求め、イギリスに対して巨額の負債を抱え込むこととなった。 また、ムハンマド・アリー・ハーンはイギリス東インド会社のみならず、東インド会社の幹部、ヨーロッパ人の商人、インド人の商人などの個人からも多額の借金をしていた。 第二次戦争中、ムハンマド・アリーはマイソール軍の援助も受けていたが、1752年にマイソール側のティルチラーパッリの割譲要求を断ったため、マイソールは途中からフランス側と同盟する事態にも陥っていた。 両国は戦争終了後もティルチラーパッリ周辺で争い、1755年4月にマイソール側が諦めて撤退したものの、これ以降長く対立が続くこととなってしまい、その脅威に怯えなければならなかった。 ムハンマド・アリー・ハーンは自身の地位を守るため、イギリス軍を駐留させておかねばならず、その駐留費は莫大なものとなって負債に加算された。ついにはイギリスも対策を考え、第三次戦争終結後の1763年10月16日にマドラス周辺の土地一帯をジャーギール(給与地)として割譲させた。また、1767年にはアルコットからマドラスへと首府を移した。 1773年9月17日、ムハンマド・アリー・ハーンは財政難を打開するため、マドラスの東インド会社職員らの援助を得て、タンジャーヴール・マラーター王国を併合した(タンジャーヴール包囲戦)。だが、併合後も財政は悪化し続け、さらには私的債権者である東インド会社の職員らとの癒着も指摘、不当な併合に対して会社の内外で批判が高まる結果となった。 そのため、1776年4月11日、タンジャーヴール・マラーター王国はイギリスによって復活し、その君主トゥラジャージー2世は復位したため、この併合は何の意味も成さなかった。
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