ムハンマド・アリーの侵攻
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「東方問題」の記事における「ムハンマド・アリーの侵攻」の解説
ギリシャ独立戦争中のen:Ottoman–Egyptian invasion of Maniでは協力していたエジプトとオスマン帝国だったが、ギリシャ独立戦争終結した頃になるとエジプトを実質的に支配していたムハンマド・アリーとエジプトの宗主国であったオスマン帝国との間で紛争(エジプト・オスマン戦争 (1831年-1833年))が発生した(1831年)。フランスの援助によって近代的でよく訓練されていたエジプト軍は、オスマン軍を圧倒し、オスマン帝国全域を制圧するかに見えた。この事態に際して、オスマン帝国を従属させる政策をとっていたロシアは、オスマン帝国に同盟を提案した。1833年に両国間に ウンキャル・スケレッシ条約が結ばれ、 ロシアはオスマン帝国を外敵から保護する ロシアが交戦中の場合、オスマン帝国はダーダネルス海峡において全軍艦の通航を封鎖する ことを約束した。このロシアの介入によって1833年にオスマン帝国とエジプトとの間に一時的な和約がなった。 しかし、ウンキャル・スケレッシ条約は「海峡問題」として知られる外交問題を発生させた。問題の原因は、条約が全ての軍艦の通航を封鎖するとしていたにも関らず、ヨーロッパ各国の多く政治家にロシアの船舶だけは例外と誤解されたためである。イギリスとフランスはこの誤解からロシアの態度を非難し、ロシアの台頭を抑えようとした。しかし両国は、目的を果たすための基本姿勢が異なっていた。イギリスはオスマン帝国の保全を望んでいたのに対し、フランスはより有力と思われるムハンマド・アリーがオスマン帝国を統治することを望んでいた。 1839年 、オスマン帝国とエジプトの間に紛争が再発(エジプト・オスマン戦争 (1839年-1841年)(英語版))した。同年、オスマン帝国のマフムト2世が死去すると、まだ若いアブデュルメジト1世が即位したが、その権力は安定しなかった。このような状況の中、ムハンマド・アリーのエジプト軍は今度もオスマン帝国の軍隊を圧倒した。これを見て、イギリス・フランス・ロシアはオスマン帝国の解体を防ぐために一斉に介入したが、それぞれの基本姿勢は異なり、フランスはいまだにムハンマド・アリーを支持する立場にいた。1840年に列強間で妥協が合意され、エジプトは名目的にはオスマン帝国の宗属関係にとどめおかれたが、エジプト支配をムハマンド・アリーの世襲(ムハンマド・アリー朝)とすることが認められた。 この間も「海峡問題」は解決されていなかった。1841年ロシアがロンドン海峡協定(英語版)を受け入れたことにより、ウンキャル・スケレッシ条約は最終的に廃棄された。この協定によって、ヨーロッパの列強(ロシア、フランス、イギリス、オーストリア、プロイセン)はオスマン帝国が戦争中その同盟国に認める場合を除いて、基本的にダーダネルス海峡での全ての軍艦の通航を禁止するという「古い規則」に戻された。ロシアのニコライ1世はこの状況から判断し、オスマン帝国を従属させる政策を取りやめ、オスマン帝国分割(英語版)という従来の方針に復帰した。 1831年以来のエジプトとの紛争で弱体化したオスマン帝国は、結果的に、ロシアに従属する立場ではなくなったが、独立国とはとてもいえない状態で列強の保護下におかれたというのが実状だった。この時期のオスマン帝国はさまざまな内政改革を試みたが、かつての栄光を取り戻すことはできず、1840年代には「ヨーロッパの病人」と呼ばれ、帝国の瓦解は避けられないと考えられる状態になった。
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