ムハンマド・アリーの侵攻とは? わかりやすく解説

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ムハンマド・アリーの侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:20 UTC 版)

東方問題」の記事における「ムハンマド・アリーの侵攻」の解説

ギリシャ独立戦争中のen:OttomanEgyptian invasion of Maniでは協力していたエジプトオスマン帝国だったが、ギリシャ独立戦争終結した頃になるとエジプト実質的に支配していたムハンマド・アリーエジプト宗主国であったオスマン帝国との間で紛争(エジプト・オスマン戦争 (1831年-1833年))が発生した1831年)。フランス援助によって近代的でよく訓練されていたエジプト軍は、オスマン軍圧倒しオスマン帝国全域制圧するかに見えた。この事態に際してオスマン帝国従属させる政策とっていロシアは、オスマン帝国同盟提案した1833年両国間に ウンキャル・スケレッシ条約結ばれロシアオスマン帝国外敵から保護する ロシア交戦中の場合オスマン帝国ダーダネルス海峡において全軍艦の通航封鎖する ことを約束した。このロシア介入によって1833年オスマン帝国エジプトとの間に一時的な和約がなった。 しかし、ウンキャル・スケレッシ条約は「海峡問題」として知られる外交問題発生させた。問題の原因は、条約全ての軍艦通航封鎖するとしていたにも関らず、ヨーロッパ各国多く政治家にロシア船舶だけは例外誤解されたためである。イギリスフランスはこの誤解からロシア態度非難しロシア台頭抑えようとした。しかし両国は、目的を果たすための基本姿勢異なっていた。イギリスオスマン帝国保全望んでいたのに対しフランスはより有力と思われるムハンマド・アリーオスマン帝国統治することを望んでいた。 1839年オスマン帝国エジプトの間に紛争再発(エジプト・オスマン戦争 (1839年-1841年)(英語版))した。同年オスマン帝国マフムト2世死去すると、まだ若いアブデュルメジト1世即位したが、その権力安定しなかった。このような状況の中、ムハンマド・アリーエジプト軍今度オスマン帝国軍隊圧倒した。これを見て、イギリス・フランス・ロシアはオスマン帝国解体を防ぐために一斉に介入したが、それぞれの基本姿勢異なりフランスいまだにムハンマド・アリー支持する立場にいた。1840年列強間で妥協合意されエジプト名目的にはオスマン帝国の宗属関係にとどめおかれたが、エジプト支配をムハマンド・アリーの世襲ムハンマド・アリー朝)とすることが認められた。 この間も「海峡問題」は解決されていなかった。1841年ロシアロンドン海峡協定英語版)を受け入れたことにより、ウンキャル・スケレッシ条約最終的に廃棄された。この協定によって、ヨーロッパの列強ロシアフランスイギリスオーストリアプロイセン)はオスマン帝国戦争中その同盟国認め場合除いて基本的にダーダネルス海峡での全ての軍艦通航禁止するという「古い規則」に戻された。ロシアニコライ1世はこの状況から判断しオスマン帝国従属させる政策取りやめ、オスマン帝国分割英語版)という従来方針復帰した1831年以来エジプトとの紛争弱体化したオスマン帝国は、結果的にロシア従属する立場ではなくなったが、独立国とはとてもいえない状態で列強保護下におかれたというのが実状だった。この時期オスマン帝国さまざまな内政改革試みたが、かつての栄光取り戻すことはできず、1840年代には「ヨーロッパ病人」と呼ばれ帝国瓦解避けられない考えられる状態になった

※この「ムハンマド・アリーの侵攻」の解説は、「東方問題」の解説の一部です。
「ムハンマド・アリーの侵攻」を含む「東方問題」の記事については、「東方問題」の概要を参照ください。

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