ムハンマド・アリーの時代
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「ムハンマド・アリー朝」の記事における「ムハンマド・アリーの時代」の解説
ムハンマド・アリー朝を創始したムハンマド・アリーは、現ギリシャ領北東部、マケドニア地方の港町カヴァラで、軍司令官かつ商人でもあった父の下に生まれた。ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍のエジプト侵攻時、これに対抗するためにオスマン帝国が徴募、派遣したアルバニア人非正規軍に将校のひとりとして参加した。侵攻にともなう戦乱状態を制し、1805年にエジプトの住民によってエジプト総督に推挙された。エジプト州は、オスマン帝国支配下の州でありながら長らくマムルークら在地の有力者による実効支配を受け半独立的状態にあったが、オスマン帝国の承諾を受けて正式に総督に就任したムハンマド・アリーはマムルークを撃滅してエジプトの支配権を全面的に掌握し、総督の強力な指導力に基づく政権を樹立して、ムハンマド・アリー朝を実質的に成立させた。 ムハンマド・アリーは軍隊の近代化、土地の国有化による輸出向け農業の振興、ヨーロッパの技術を導入した工業化など、イスラム社会における近代化政策をオスマン帝国本国に先んじて推進した。彼のもとでエジプトの国力は急速に増強され、軍事的な衰退著しい宗主国オスマン帝国にかわって1818年にはワッハーブ派がアラビア半島に興した第一次サウード王国を滅ぼした。1820年からは南のスーダンに侵攻し、スーダン北部をエジプト領に併合する。 1821年にはギリシャ独立戦争が本格化するが、オスマン帝国はこれを独力で鎮圧することができずエジプト軍の来援を求めた。独立阻止の目的は失敗に終わったこの戦争でエジプト軍はナヴァリノの海戦で大敗を喫するなど大きな犠牲を払ったが、ムハンマド・アリーは出兵の代償としてオスマン帝国にシリア地方の行政権を要求、これが果たされないと1831年、1839年と二度に渡ってエジプト・トルコ戦争(エジプト事件)を起こしてオスマン帝国に反旗を翻した。エジプト軍はシリアからアナトリアまで侵攻して武力でオスマン帝国にシリアの支配権を認めさせたが、エジプトの強大化を警戒するヨーロッパ列強の介入を受け、1840年のロンドン条約によってムハンマド・アリーの子孫によるエジプト総督の世襲権を認める代償としてシリアを放棄させられた。この世襲制公認を以て、ムハンマド・アリー朝が正式に成立したとみる向きもある。 シリア出兵の挫折はエジプトの近代化・富国強兵の限界をあらわにし、また列強がムハンマド・アリーに迫ってオスマン帝国が各国と結ぶ不平等条約(カピチュレーション)に基づき治外法権の承認、関税自主権の放棄、国内市場の開放を実現させたために、エジプトは列強の経済的植民地化の道を歩むことになった。
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