ムハンマド・アリーの時代とは? わかりやすく解説

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ムハンマド・アリーの時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 00:59 UTC 版)

ムハンマド・アリー朝」の記事における「ムハンマド・アリーの時代」の解説

ムハンマド・アリー朝創始したムハンマド・アリーは、現ギリシャ領北東部マケドニア地方港町カヴァラで、軍司令官かつ商人でもあった父の下に生まれたナポレオン・ボナパルト率いフランス軍エジプト侵攻時、これに対抗するためにオスマン帝国徴募派遣したアルバニア人非正規軍に将校ひとりとして参加した侵攻にともなう戦乱状態を制し1805年エジプト住民によってエジプト総督推挙された。エジプト州は、オスマン帝国支配下の州でありながら長らくマムルーク在地有力者による実効支配を受け半独立的状態にあったが、オスマン帝国承諾受けて正式に総督就任したムハンマド・アリーマムルーク撃滅してエジプト支配権全面的に掌握し総督強力な指導力に基づく政権樹立してムハンマド・アリー朝実質的に成立させた。 ムハンマド・アリー軍隊近代化土地国有化による輸出向け農業振興ヨーロッパ技術導入した工業化など、イスラム社会における近代化政策オスマン帝国本国先んじて推進した彼のもとでエジプト国力急速に増強され、軍事的な衰退著し宗主国オスマン帝国かわって1818年にはワッハーブ派アラビア半島興した第一次サウード王国滅ぼした1820年からは南のスーダン侵攻しスーダン北部エジプト領に併合する1821年にはギリシャ独立戦争本格化するが、オスマン帝国はこれを独力で鎮圧することができずエジプト軍来援求めた独立阻止目的失敗終わったこの戦争エジプト軍ナヴァリノの海戦大敗喫するなど大きな犠牲払ったが、ムハンマド・アリー出兵代償としてオスマン帝国シリア地方行政権要求、これが果たされない1831年1839年二度渡ってエジプト・トルコ戦争エジプト事件)を起こしてオスマン帝国反旗を翻したエジプト軍シリアからアナトリアまで侵攻し武力オスマン帝国シリア支配権認めさせたが、エジプト強大化を警戒するヨーロッパ列強介入を受け、1840年ロンドン条約によってムハンマド・アリーの子孫によるエジプト総督世襲認め代償としてシリア放棄させられた。この世襲制公認を以てムハンマド・アリー朝正式に成立したとみる向きもある。 シリア出兵挫折エジプト近代化富国強兵限界あらわにし、また列強ムハンマド・アリー迫ってオスマン帝国各国と結ぶ不平等条約カピチュレーションに基づき治外法権承認関税自主権放棄国内市場開放実現させたために、エジプト列強経済的植民地化の道を歩むことになった

※この「ムハンマド・アリーの時代」の解説は、「ムハンマド・アリー朝」の解説の一部です。
「ムハンマド・アリーの時代」を含む「ムハンマド・アリー朝」の記事については、「ムハンマド・アリー朝」の概要を参照ください。

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