ムハンマド・アリー朝のクレタ島とは? わかりやすく解説

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ムハンマド・アリー朝のクレタ島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)

クレタ島の歴史」の記事における「ムハンマド・アリー朝のクレタ島」の解説

ムハンマド・アリー」および「ムハンマド・アリー朝」も参照 ギリシアの独立達成された際、クレタ島キリスト教徒たちも統合希望していたが、列強クレタ島オスマン帝国領内に残存することを決定していた(ロンドン議定書)。クレタ島反乱指導者たちは激しく抗議したが、イギリス中心としたヨーロッパ列強は「恣意的抑圧的な行動からの保護」以上のものを提供することを拒否した実際には、1830年6月24日フェルマーン勅書)により、反乱鎮圧貢献対す恩賞、そして損失代償として、クレタ島エジプト総督ムハンマド・アリー支配委ねられた。ムハンマド・アリー10年にも渡る戦争荒廃極致にあったこの島を統治するため、アルバニア人のムスタファ・ナーイリ・パシャ(英語版)をクレタ総督任じた。ムスタファ・ナーイリ・パシャはムスリムキリスト教徒等しく武装解除させ、異教徒課されていたハラージュ廃止キリスト教徒暴虐働いたトルコ人」の処罰などを行いハニア、カンディア・レスモ(レシムノン)にムスリムキリスト教徒名士構成される郡政会議設置して島内安定させることに努めたまた、崩壊していた産業復興させるため、オリーブなどを始めとした農業勧奨と、種子家畜貸付けによる生産増進為替整備水道橋梁整備などの公共事業など、広範な改革が行われた。 しかし、戦時中離散していたクレタ島ギリシア人たちの帰還問題新たな火種となったギリシア政府領内にいたクレタ島からの難民ギリシア国籍としており、帰還希望に対してギリシア市民」として旅券発給していた。彼らは「ギリシアクレタ住民Crétois Hellènes)」と呼ばれるが、その両属的かつ不安定な立ち位置外交紛争争乱の種となり、エジプトオスマン帝国悩ませることとなる。エジプト当局は彼らを「祖国からの逃亡者」とみなし、またギリシアとのエノシス統合)を扇動する不穏分子であると見ていた。そのため彼らの財産権認めず帝国臣民戻りギリシア籍を放棄するクレタ島から退去するかの選択迫った。彼らの多くギリシア籍を放棄するクレタ島離島する道を選びギリシア籍を維持したものは山間部へと移動した。この結果エジプト本国では「ギリシア人」たちは保護を受け、商業活動便宜受けているのに対しエジプト支配下のクレタ島における「ギリシアクレタ住民」は厳し迫害晒される特殊な地位置かれることとなったこうした問題や、キリスト教徒住民の間に広まっていた疑心暗鬼から騒擾発生してもいたが、それでも全体としてムスタファ・ナーイリ・パシャはクレタ島統治にあたって多くの面で業績残し平穏な時代築いたムハンマド・アリーアラビア全域包括する帝国構築目論み、オスマン帝国との戦争エジプト・トルコ戦争)でその領土蚕食していたが、イギリスは、エジプト各種製品専売制敷いていたことから、その領土拡張潜在的な自国市場喪失みなしており、またインドルートの遮断恐れてエジプト拡大重大な懸念抱いていた。1839年からの戦争で更にエジプトオスマン帝国打ち破ると、イギリス直接介入決意し、プロイセン・ロシア・オーストリアに働きかけて、エジプトに対してエジプト本国スーダン以外の占領地放棄オスマン帝国から降伏していた海軍引き渡し要求する最後通牒出したロンドン条約)。ムハンマド・アリーフランスとの提携によってこれに対抗しようとしたが敗退した。この結果クレタ島エジプトの手離れオスマン帝国返還された。エジプトクレタ島から去った後、オスマン帝国からヌリ・ベイが派遣され支配当たった。ムスタファ・ナーイリ・パシャはヌリ・ベイに対しオスマン帝国スルタンへの臣従誓い行政権そのまま維持した

※この「ムハンマド・アリー朝のクレタ島」の解説は、「クレタ島の歴史」の解説の一部です。
「ムハンマド・アリー朝のクレタ島」を含む「クレタ島の歴史」の記事については、「クレタ島の歴史」の概要を参照ください。

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