ムハンマド・アリー朝のクレタ島
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「クレタ島の歴史」の記事における「ムハンマド・アリー朝のクレタ島」の解説
「ムハンマド・アリー」および「ムハンマド・アリー朝」も参照 ギリシアの独立が達成された際、クレタ島のキリスト教徒たちも統合を希望していたが、列強はクレタ島がオスマン帝国領内に残存することを決定していた(ロンドン議定書)。クレタ島の反乱指導者たちは激しく抗議したが、イギリスを中心としたヨーロッパ列強は「恣意的で抑圧的な行動からの保護」以上のものを提供することを拒否した。実際には、1830年6月24日のフェルマーン(勅書)により、反乱鎮圧の貢献に対する恩賞、そして損失の代償として、クレタ島はエジプト総督ムハンマド・アリーの支配に委ねられた。ムハンマド・アリーは10年にも渡る戦争で荒廃の極致にあったこの島を統治するため、アルバニア人のムスタファ・ナーイリ・パシャ(英語版)をクレタ総督に任じた。ムスタファ・ナーイリ・パシャはムスリムとキリスト教徒を等しく武装解除させ、異教徒に課されていたハラージュの廃止、キリスト教徒に暴虐を働いた「トルコ人」の処罰などを行い、ハニア、カンディア・レスモ(レシムノン)にムスリムとキリスト教徒の名士で構成される郡政会議を設置して島内を安定させることに努めた。また、崩壊していた産業を復興させるため、オリーブや桑などを始めとした農業の勧奨と、種子や家畜の貸付けによる生産の増進、為替の整備、水道や橋梁の整備などの公共事業など、広範な改革が行われた。 しかし、戦時中に離散していたクレタ島のギリシア人たちの帰還問題が新たな火種となった。ギリシア政府は領内にいたクレタ島からの難民をギリシア国籍としており、帰還希望者に対して「ギリシア市民」として旅券を発給していた。彼らは「ギリシア籍クレタ住民(Crétois Hellènes)」と呼ばれるが、その両属的かつ不安定な立ち位置は外交紛争と争乱の種となり、エジプトとオスマン帝国を悩ませることとなる。エジプト当局は彼らを「祖国からの逃亡者」とみなし、またギリシアとのエノシス(統合)を扇動する不穏分子であると見ていた。そのため彼らの財産権を認めず、帝国臣民に戻りギリシア籍を放棄するかクレタ島から退去するかの選択を迫った。彼らの多くがギリシア籍を放棄するかクレタ島を離島する道を選び、ギリシア籍を維持したものは山間部へと移動した。この結果、エジプト本国では「ギリシア人」たちは保護を受け、商業活動の便宜も受けているのに対し、エジプト支配下のクレタ島における「ギリシア籍クレタ住民」は厳しい迫害に晒される特殊な地位に置かれることとなった。こうした問題や、キリスト教徒住民の間に広まっていた疑心暗鬼から騒擾が発生してもいたが、それでも全体としてムスタファ・ナーイリ・パシャはクレタ島の統治にあたって多くの面で業績を残し、平穏な時代を築いた。 ムハンマド・アリーはアラビア全域を包括する帝国の構築を目論み、オスマン帝国との戦争(エジプト・トルコ戦争)でその領土を蚕食していたが、イギリスは、エジプトが各種の製品の専売制を敷いていたことから、その領土拡張を潜在的な自国市場の喪失とみなしており、またインドルートの遮断を恐れてエジプトの拡大に重大な懸念を抱いていた。1839年からの戦争で更にエジプトがオスマン帝国を打ち破ると、イギリスは直接介入を決意し、プロイセン・ロシア・オーストリアに働きかけて、エジプトに対してエジプト本国とスーダン以外の占領地の放棄とオスマン帝国から降伏していた海軍の引き渡しを要求する最後通牒を出した(ロンドン条約)。ムハンマド・アリーはフランスとの提携によってこれに対抗しようとしたが敗退した。この結果、クレタ島はエジプトの手を離れオスマン帝国に返還された。エジプトがクレタ島から去った後、オスマン帝国からヌリ・ベイが派遣されて支配に当たった。ムスタファ・ナーイリ・パシャはヌリ・ベイに対し、オスマン帝国スルタンへの臣従を誓い行政権をそのまま維持した。
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