ムハンマド・アリーの台頭
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「エジプトの歴史」の記事における「ムハンマド・アリーの台頭」の解説
詳細は「ムハンマド・アリー」および「ムハンマド・アリー朝」を参照 十九世紀前半のエジプトの歴史は、事実上、このひとりの男の物語である。一九五二年までその支配をつづけたこの王朝の建設者、ムハンマド=アリは、エジプト建国の父―すくなくとも近代エジプトの―と呼ばれてしかるべき人物だった。かれが発揮し、あるいは行使した創意、活動力、構想のどれをとっても、同時代のイスラム教徒でかれに匹敵する者はいなかったし、平時においても、戦時においてもかれは群を抜いていた。 -フィリップ・K・ヒッティ『アラブの歴史 下』 1789年に始まったフランス革命と、その後の混乱・戦争を通じて頭角を現したナポレオン・ボナパルトは、対仏大同盟の中心となっていたイギリスに打撃を与えるため、イギリスとインドの中継交易路であったエジプトの制圧を目論んだ。表向きには実権を握るマムルーク・ベイらを排除しオスマン帝国の権威を回復するという名目の下、1798年にフランス軍がエジプトに上陸し、7月21日にムラード・ベイやイスマーイール・ベイが指揮する軍勢を寡兵をもって打ち破った。フランス軍はそのままエジプトを占領し統治下に置いたが、ネルソン提督率いるイギリス艦隊によってアブキール湾に停泊中のフランス艦隊が壊滅させられ、形勢挽回を狙ったシリア侵攻も不首尾に終わったことから、ナポレオンは1799年に本国に引き上げた。現地に残されたフランス軍は1801年まで持ちこたえたが、イギリス軍・オスマン帝国軍・現地エジプト軍などからの攻撃によって降伏に追い込まれ、フランスによるエジプト支配は終了した。 フランス軍が去った後、エジプトではオスマン帝国軍や、オスマン帝国が送り込んでいたアルバニア人不正規部隊、舞い戻ってきたマムルークたち、そしてイギリス軍などが主導権争いを演じ、その中でムハンマド・アリー(メフメト・アリ)が急速に存在感を増した。元々アルバニア人不正規部隊の一分隊長としてオスマン帝国によってエジプトに送り込まれていたムハンマド・アリーは、フランス軍との戦いの中で頭角を現した。その後の権力闘争にも勝利して権力を握り、1801年にカイロ市民からの推戴を受ける形でオスマン帝国に自らをエジプト総督に任命することを認めさせた。その後、ムハンマド・アリーは1811年に息子のアフマド・トゥーソン(英語版)の司令官任命式の名目でマムルークたちをカイロのシタデルに呼び集め殺戮した。これによって数百年以上にわたってエジプトにおける上層階層として君臨してきたマムルークという階層がエジプトの歴史の表舞台から去ることになった。ムハンマド・アリーは実質的に独立した君主としての地位を確立していったが、名目的にはエジプトはなおオスマン帝国の一属州であり、その法的地位はオスマン帝国の滅亡に至るまで紛争の種としてくすぶり続けた。 ムハンマド・アリーは内政においては主要産品の専売制の確立、税制の改革、灌漑事業などを通じて大幅な歳入増を達成し、それを背景に交通路の整備、軍需産業と紡績を中心とした工業の発展、学校教育の普及などが試みられ、エジプトの国力は大幅に拡充された。軍事的にはムハンマド・アリーはサウード王国(1811年-1818年)や東スーダン(1820年-1823年)での戦いを通じて旧式のマムルークや傭兵を中心とした軍隊の戦闘能力の不備が明らかになったことや、ムハンマド・アリーの強大化を警戒したオスマン帝国の妨害によって人員の補充が困難となっていたことなどから、ファッラッヒーンと呼ばれたエジプトの農民たちに対する徴兵制を導入し、ヨーロッパ式の新式軍隊「ニザーム・ジェディード(新制度)」の編成、海軍の組織を行った。 ムハンマド・アリーが整備した新軍隊はアラビア半島や上エジプトの反乱で勝利を重ねその実力を示した。1821年、オスマン帝国領であったモレア(ギリシャ)でロシアの支援の下、ギリシャ人たちが蜂起すると(ギリシャ独立戦争)、劣勢に立たされたオスマン帝国のスルターン・マフムト2世はムハンマド・アリーに出兵を求めた。ムハンマド・アリーは要求に応じて1822年にクレタ島に出兵してこれを制圧し、1825年にはモレアに遠征を開始した。ムハンマド・アリーの息子、イブラーヒーム・パシャが率いるエジプト軍は赫々たる戦果を挙げたが、エジプト軍の快進撃を見たイギリス・フランス・ロシアが介入に乗り出した。1827年に「帆船時代の最後の大海戦」とも呼ばれるナヴァリノの海戦でエジプト・オスマン帝国軍は敗れ、エジプト軍は撤退を余儀なくされた。 ムハンマド・アリーにはモレア出兵の代償として元々シリアの統治権が提示されており、彼は損失の代償としてそれを要求したが、敗戦とギリシャ独立阻止の失敗で多くを失っていたマフムト2世は要求を拒否した。ムハンマド・アリーは実力でシリアの確保にかかり、1831年、第一次エジプト・トルコ戦争が勃発した。この戦争に完勝を収めたムハンマド・アリーは、1833年のキュタヒヤ条約(キュタヒヤの和約)において、エジプト本国に加え、スーダン、クレタ島、シリア、ヒジャーズ(アラビア半島)を支配下に収めることに成功した。 しかし、拡大を続けるムハンマド・アリーに脅威を覚えたイギリスはその膨張の阻止にかかった。これはイギリスにとってエジプトがインドとの中継地点として地政学的な重要性を持っていたことに加え、ムハンマド・アリーが敷いていた専売制が、イギリスの潜在的な市場を失わせるものと見られたことなどによる。1839年に失地回復を目指すスルターン・マフムト2世がシリアに軍を派遣して第二次エジプト・トルコ戦争が勃発すると、エジプト軍は再び大勝を収め、オスマン帝国の海軍大提督アフメト・フェウズィ・パシャが指揮下の全艦隊を率いてエジプトに降伏する事態に発展した。政治地図の激変を恐れたヨーロッパ列強諸国は、イギリスの主導の下で1840年7月にエジプトに対してエジプト本国とスーダンを除く全征服地の放棄とオスマン帝国から降伏した艦隊の引き渡しを要求した(ロンドン条約)。ムハンマド・アリーは親エジプト的であったフランスとの提携によって対抗しようとしたが、イギリス軍の直接介入によってエジプト軍が撃破され、1840年11月に降伏に追い込まれた。ムハンマド・アリーは軍備縮小、治外法権の承認、エジプトとスーダン以外の全征服地の放棄を約束させられ、その覇業は頓挫した。しかし、一方で「エジプト総督」位の世襲権が認められ、以降のエジプトはムハンマド・アリーの子孫たちによって統治されることとなった。これをムハンマド・アリー朝と呼ぶ。
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