ムハンマド・アリーの台頭とは? わかりやすく解説

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ムハンマド・アリーの台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)

エジプトの歴史」の記事における「ムハンマド・アリーの台頭」の解説

詳細は「ムハンマド・アリー」および「ムハンマド・アリー朝」を参照 十九世紀前半エジプトの歴史は、事実上このひとりの男の物語である。一九五二年までその支配つづけたこの王朝建設者ムハンマド=アリは、エジプト建国の父すくなくとも近代エジプトの―と呼ばれてしかるべき人物だった。かれが発揮し、あるいは行使した創意活動力構想のどれをとっても同時代イスラム教徒でかれに匹敵する者はいなかったし、平時においても、戦時においてもかれは群を抜いていた。 -フィリップ・K・ヒッティ『アラブ歴史 下』 1789年始まったフランス革命と、その後の混乱戦争通じて頭角現しナポレオン・ボナパルトは、対仏大同盟中心となっていたイギリス打撃与えるため、イギリスインド中継交易路であったエジプト制圧目論んだ表向きには実権を握るマムルーク・ベイらを排除しオスマン帝国権威回復するという名目の下、1798年フランス軍エジプト上陸し7月21日ムラード・ベイやイスマーイール・ベイが指揮する軍勢寡兵をもって打ち破ったフランス軍そのままエジプト占領し統治下に置いたが、ネルソン提督率いイギリス艦隊によってアブキール湾停泊中のフランス艦隊壊滅させられ形勢挽回狙ったシリア侵攻不首尾に終わったことから、ナポレオン1799年本国引き上げた現地残されフランス軍1801年まで持ちこたえたが、イギリス軍オスマン帝国軍現地エジプト軍などからの攻撃によって降伏追い込まれフランスによるエジプト支配終了したフランス軍去った後、エジプトではオスマン帝国軍や、オスマン帝国送り込んでいたアルバニア人正規部隊舞い戻ってきたマムルークたち、そしてイギリス軍などが主導権争い演じその中でムハンマド・アリーメフメト・アリ)が急速に存在感増した。元々アルバニア人正規部隊一分隊長としてオスマン帝国によってエジプト送り込まれていたムハンマド・アリーは、フランス軍との戦いの中で頭角現した。その後権力闘争にも勝利して権力握り1801年カイロ市民からの推戴を受ける形でオスマン帝国に自らをエジプト総督任命することを認めさせた。その後ムハンマド・アリー1811年息子のアフマド・トゥーソン(英語版)の司令官任命式の名目マムルークたちをカイロシタデル呼び集め殺戮した。これによって数百以上にわたってエジプトにおける上層階層として君臨してきたマムルークという階層エジプトの歴史表舞台から去ることになったムハンマド・アリー実質的に独立した君主として地位確立していったが、名目的にはエジプトはなおオスマン帝国の一属州であり、その法的地位オスマン帝国滅亡に至るまで紛争種としてくすぶり続けたムハンマド・アリー内政においては主要産品専売制確立税制改革灌漑事業などを通じて大幅な歳入増達成し、それを背景交通路整備軍需産業紡績中心とした工業の発展学校教育普及などが試みられエジプト国力大幅に拡充された。軍事的にムハンマド・アリーサウード王国1811年-1818年)や東スーダン1820年-1823年)での戦い通じて旧式マムルーク傭兵中心とした軍隊戦闘能力不備明らかになったことや、ムハンマド・アリー強大化を警戒したオスマン帝国妨害によって人員補充が困難となっていたことなどから、ファッラッヒーン呼ばれたエジプト農民たちに対す徴兵制導入しヨーロッパ式新式軍隊ニザーム・ジェディード新制度)」の編成海軍組織行ったムハンマド・アリー整備した新軍隊はアラビア半島上エジプト反乱勝利を重ねその実力を示した1821年オスマン帝国領であったモレアギリシャ)でロシア支援の下、ギリシャ人たちが蜂起すると(ギリシャ独立戦争)、劣勢に立たされたオスマン帝国のスルターン・マフムト2世ムハンマド・アリー出兵求めたムハンマド・アリー要求に応じて1822年クレタ島出兵してこれを制圧し1825年にはモレア遠征開始したムハンマド・アリー息子イブラーヒーム・パシャ率いエジプト軍赫々たる戦果挙げたが、エジプト軍快進撃見たイギリス・フランス・ロシアが介入乗り出した1827年に「帆船時代最後大海戦」とも呼ばれるナヴァリノの海戦でエジプト・オスマン帝国軍敗れエジプト軍撤退余儀なくされた。 ムハンマド・アリーにはモレア出兵代償として元々シリア統治権提示されており、彼は損失代償としてそれを要求したが、敗戦ギリシャ独立阻止失敗多く失っていたマフムト2世要求拒否したムハンマド・アリー実力シリア確保にかかり、1831年第一次エジプト・トルコ戦争勃発した。この戦争完勝収めたムハンマド・アリーは、1833年キュタヒヤ条約キュタヒヤ和約)において、エジプト本国加えスーダンクレタ島シリアヒジャーズアラビア半島)を支配下収めることに成功した。 しかし、拡大続けムハンマド・アリー脅威覚えたイギリスはその膨張阻止かかった。これはイギリスにとってエジプトインドとの中継地点として地政学的な重要性持っていたことに加えムハンマド・アリー敷いていた専売制が、イギリス潜在的な市場失わせるものと見られたことなどによる。1839年失地回復目指すスルターン・マフムト2世シリアに軍を派遣して第二次エジプト・トルコ戦争勃発すると、エジプト軍は再び大勝収めオスマン帝国海軍大提督アフメト・フェウズィ・パシャが指揮下の全艦隊率いてエジプト降伏する事態発展した政治地図激変恐れたヨーロッパ列強諸国は、イギリス主導の下で1840年7月エジプトに対してエジプト本国スーダンを除く全征服地の放棄オスマン帝国から降伏した艦隊引き渡し要求したロンドン条約)。ムハンマド・アリーは親エジプトであったフランスとの提携によって対抗しようとしたが、イギリス軍直接介入によってエジプト軍撃破され、1840年11月降伏追い込まれた。ムハンマド・アリー軍備縮小治外法権承認エジプトスーダン以外の征服地の放棄約束させられ、その覇業頓挫した。しかし、一方でエジプト総督」位の世襲認められ以降エジプトムハンマド・アリーの子孫たちによって統治されることとなった。これをムハンマド・アリー朝と呼ぶ。

※この「ムハンマド・アリーの台頭」の解説は、「エジプトの歴史」の解説の一部です。
「ムハンマド・アリーの台頭」を含む「エジプトの歴史」の記事については、「エジプトの歴史」の概要を参照ください。

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