その後の混乱
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「3月31日事件」を鎮圧した統一と進歩委員会ではあったが、中央政界に直接その影響力を及ぼすようになるにはなお時間がかかった。統一と進歩委員会は下院第一党ではあったが、議院内閣制ではなかったことや政治経験のない比較的若い人物が多いこともあって、自派の人物を大宰相とすることが出来なかった。アブデュルハミト2世を廃位した後も状況は変わらず、やむをえず自派の主張に比較的近い政治家や軍人を大宰相に据えるという方法をとった。しかし、このような間接的に影響力を行使しようとする方法はうまくいかず、政治の混乱を招いた。 政治の混乱は、かつての青年トルコ人革命の指導者であったタラート、エンヴェル、ジェマルらがクーデター(英語版)を起こし、統一と進歩委員会が自派から大宰相を擁立して実権を掌握する1913年まで続いた。この政治の混乱期にはさまざまな対立軸が生まれ、対外的には親英か親独か、国内的には中央集権か地方分権か、などといった問題が争点となった。これには、「統一と進歩委員会」内部のかつて国外で活動していたグループとサロニカなどの国内で活動していたグループの派閥対立や、「統一と進歩委員会」に反対する野党の結成などの政治的要素が複雑に絡み合っていた。 実権を握ったタラートらは「三頭政治(英語版)」による統一と進歩委員会政権を組織し、中央集権化政策を推進していったが、その政権運営は反対派にとっては専制政治への逆行、「革命の反動化」を思わせる強権的なものであった。 また、革命直後の混乱に乗じてオーストリア・ハンガリー帝国がボスニアとヘルツェゴヴィナを併合したほか(ボスニア・ヘルツェゴビナ併合)、オスマン帝国の宗主権下にあったブルガリア自治公国が独立を宣言し、やはりオスマン帝国宗主権下の自治領であったクレタ島がギリシャへの編入を宣言するなど、青年トルコ人革命はベルリン会議で取り決められたバルカン半島の体制が完全に崩壊するきっかけともなった。
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その後の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 20:56 UTC 版)
その後、雪印グループの製品が全品撤去に至るなど、親会社の不祥事とは言え、グループ会社全体の経営が悪化する。そして2001年から2002年(平成14年)にかけてBSE問題が表面化。これによって追い打ちをかけられたグループ会社の雪印食品は、雪印牛肉偽装事件(雪印乳業本体ではなく、子会社不監督)を発生させた。この事件によって信用失墜は決定的になり、グループの解体・再編を余儀なくされる結果となった。さらにこれが原因で、同社がスポンサーであった『料理バンザイ!』(テレビ朝日系)が、2002年3月31日で放送終了となった。 1997年(平成9年)の山一證券・北海道拓殖銀行・日本長期信用銀行の倒産ともあわせ、戦後のバブル経済まで絶対的に信奉されてきた「一流企業」ブランドに対する信頼は崩れ落ち、高度経済成長期以来の価値観の転換を象徴する事件となった。 雪印グループは、スキージャンプやアイスホッケーなどウィンタースポーツの振興に寄与していたが、雪印グループの再編により雪印の実業団は、(スキージャンプのチームである)「チーム雪印」を除き廃され、多くの選手が競技を続けられなくなった。長引く不景気により多くの企業が実業団に資金を注げなくなったこともあり、1998年の長野冬季オリンピックではスキージャンプで金メダルを獲得するまでに至っていた日本のウィンタースポーツは急速に凋落した。 影響は雪印だけに留まらなかった。他の乳業メーカーへ注文が殺到したために、乳業各社で生産・配送が受注に追いつかなくなった。また、乳業以外の食品メーカーでも衛生管理をめぐる不祥事が明るみに出たり、パンやトマトジュースなどをはじめとした食品への異物(蝿や蛙など)が混入する騒ぎなど、食品業界全体の食の安全に大きな影響を与えた。 さらにこの事件が社会に与えた影響として以下のものが挙げられる。 商品名への「牛乳」の命名基準が厳しくなり、コーヒー牛乳、フルーツ牛乳などの名称が消えた。 低脂肪乳から成分無調整牛乳への需要の集中などにより、夏場の牛乳不足が深刻となる。当初、牛乳・乳製品の需要は低下すると予測され、同業各社は減産を検討していたが、予測に反してほとんど需要が低下しなかった上、最大手の雪印乳業が事実上操業停止に追い込まれたため、明治乳業(現:明治)・森永乳業などの大手から地域の零細メーカーまで、フル操業でも需要を満たせないような状況になった。 お膝元である北海道では、雪印全工場の操業停止により「地元で作られた牛乳を地元で飲めない」という問題が発生。中でもパイロットファームで有名な、根釧原野を有する釧路・根室地方では、市乳工場であった雪印乳業釧路工場が撤退していたため、他地域以上に問題視された。このためよつ葉乳業は首都圏向け商品に特化していた根釧工場で、2004年(平成16年)から「根釧牛乳」を生産・発売することとなった。 乳製品の再利用について、2001年5月に社団法人日本乳業協会が「飲用乳の製品の再利用に関するガイドライン」を作成し、「工場の冷蔵管理下にある一定量の製品についてのみ行われる」ことが決定された。 大阪工場が総合衛生管理製造過程(HACCPが要件、厚生労働省が審査/承認)承認工場であったことから、それまで書類審査のみであった承認審査に現地調査が導入されるとともに、3年ごとに更新申請が必要とされるなど、「総合衛生管理製造過程」見直しのきっかけとなった。 当事件をきっかけに雪印乳業大阪工場が閉鎖。跡地にマンション・生活協同組合おおさかパルコープ都島支所が建設された。8月には同じ近畿で京阪牛乳の製品から食中毒事件が発生。原因は販売店の杜撰な管理にあったものの、風評被害が大きく京阪牛乳は牛乳事業からの完全撤退に追い込まれた。 雪印乳業は、当事件発生を理由にJT・キーコーヒーとともに展開予定だった『Roots』ブランドを返上・離脱した。
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