その後の渡辺家
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守の子の勝(すぐる)も甲府徳川家に仕え、小姓組・書院番組頭・持筒頭などを歴任した。綱豊(徳川家宣)が将軍として江戸城に入ったため、これに従って500石取りの旗本となった。
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その後の渡辺家
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囚獄佑の没後、家督は嫡男・安(やす)が継承したが、幼少だったために同心衆を収められた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、安は甲府城の守衛を命じられるとともに、知行地も旧領の本栖領に移された。しかし安は甲府城において18歳で没した。 安の死後、囚獄佑の次男・長(おさ)が家督を継承し、本栖で630石余の知行が認められた。『寛政譜』によれば、長・盛(もり)・友(とも)の3代にわたって「本栖の関を守る」「本栖の関所奉行」との記述がある。なお、長・盛は「囚獄」の通称を継いで名乗った。友の子の源太郎は天和元年(1681年)に蔵米支給に切り替えられ小普請入りとなり、本栖から切り離された。源太郎はそののち御書院番となり、元禄10年(1697年)には再び知行取となるが、知行地は上総国に与えられた。享保7年(1722年)、源太郎の養子・甚五兵衛の代で無嗣断絶となる。 渡辺長の二男・時(とき)、四男・虞(とら)も旗本として別家を立てている。時の家は無嗣断絶となったが、虞の家は『寛政譜』編纂時に存続している(当主は渡辺左次郎英(さかえ)、200俵)。虞の家の3代目(英の父)である渡辺博(源二郎)は代官・御広敷番頭を務めている。
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