東宝争議とその後の混乱とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 東宝争議とその後の混乱の意味・解説 

東宝争議とその後の混乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:57 UTC 版)

東宝」の記事における「東宝争議とその後の混乱」の解説

1946年から1950年にかけて経営者労働組合対立激化し、そんな最中1948年3月4日本社東宝文芸ビル移転。だが同年6月1日には撮影所占拠した組合員排除するため、警視庁予備隊果ては占領アメリカ軍戦車戦闘機まで出動する騒ぎになる。これが「来なかったのは軍艦だけ」と言われ東宝争議である。 この間大河内伝次郎長谷川一夫入江たか子山田五十鈴藤田進黒川弥太郎原節子高峰秀子山根寿子花井蘭子の十大スター結成した十人の旗の会と、反左翼渡辺邦男はじめとする有名監督大半は、1948年4月26日第三組合によって設立され新東宝4月26日には系列会社国際放映設立)で活動することになる。そのため東宝再建不能と言われ1949年3月15日映画制作新東宝任せ東宝配給部門のみ受け持つ方針が真剣に協議されたこともあった。 大スター大監督ごっそり辞めたことで、入社したての三船敏郎らがすぐに主役として抜擢され、若い監督活躍の場を得やすい状況になった残留組イコール左翼的という単純な色分けできないが、共産党員多く放逐され新東宝はまもなく東宝絶縁し独立会社となったため、比較リベラルだが政治には深入りしなかった人材多く残ることになる。新東宝独立後、文芸映画路線不振経営がすぐに悪化新社長に迎えた大蔵貢低予算通俗映画路線一時的に持ち直したものの、1961年倒産市川崑など一部スター監督それより遥か以前、完全独立前後東宝復帰していた。

※この「東宝争議とその後の混乱」の解説は、「東宝」の解説の一部です。
「東宝争議とその後の混乱」を含む「東宝」の記事については、「東宝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「東宝争議とその後の混乱」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東宝争議とその後の混乱」の関連用語

1
4% |||||

東宝争議とその後の混乱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東宝争議とその後の混乱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの東宝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS