東宝争議から新東宝へとは? わかりやすく解説

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東宝争議から新東宝へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 15:44 UTC 版)

藤林甲」の記事における「東宝争議から新東宝へ」の解説

戦後藤林第1作は、終戦の年の11月22日公開され榎本健一轟夕起子主演映画『歌へ!太陽』(監督阿部豊であった同作では松竹蒲田撮影所出身撮影技師小原譲治1905年 - 没年不詳)と組み以降新東宝時代までともに多く作品で組むことになる。翌1946年昭和21年)には、同年3月28日公開の『浦島太郎後裔』(監督成瀬巳喜男撮影山崎一雄)、同年7月4日公開の『僕の父さん』(監督阿部豊撮影小原譲治)を手がけるが、同年10月に「第二次東宝争議」が起き同年11月には大河内伝次郎長谷川一夫山田五十鈴10人の俳優が「十人の旗の会」を結成して日本映画演劇労働組合日映演東宝支部脱退渡辺邦男中心となって結成した第三組合である「東宝撮影所従業員組合」に参加藤林スタッフもこれに参加している。1947年昭和22年初頭、同従組主体東宝第二撮影所(のちの国際放映撮影所現在の東京メディアシティ)で新東宝映画製作所結成され藤林は、第1作東宝千一夜』(構成中村福、撮影三村明)に「照明」としてクレジットされた。同作同年2月25日東宝配給し公開され以降、本来の東宝撮影所では「東宝争議」が激化していくが、東宝配給作品新東宝が製作・供給することになり、藤林同社大河内伝次郎主演する大江戸の鬼』(監督萩原遼撮影安本淳・岩佐一泉)に取り組むことになる。撮影技師西本正1921年 - 1997年によれば撮影助手に来ないかと西本新東宝映画製作所誘ったのが藤林であるといい、西本藤林の名をマキノから聞いて知っていたといい、同作西本サード助手務めた新東宝は、1948年昭和23年4月25日株式会社新東宝として設立佐生正三郎社長に就任ひきつづき東宝配給提供する作品製作しつづけるが、「東宝争議」は同年10月18日終結し東宝撮影所の製作機能正常に戻っていく。藤林が手がけ、1950年昭和25年4月2日公開された『妻と女記者』(監督千葉泰樹撮影小原譲治)を最後に同社東宝との配給提携解消し自主配給切り替わる。この時期藤林は、松竹大船撮影所小津安二郎監督した宗方姉妹』(撮影小原譲治1950年8月25日公開)、松竹下加茂撮影所辞して大映に移る間の時期溝口健二監督した雪夫人絵図』(撮影小原譲治同年10月21日公開)や『西鶴一代女』(撮影平野好美、1952年4月17日公開)、あるいは『戦艦大和』(監督阿部豊1953年6月15日公開)といった文芸作品を手がけた。 1953年昭和28年1月8日公開の『ハワイの夜』は、マキノ雅弘監督作であり、撮影三村明照明藤林手がけた作品だが、この公開日が、東宝マキノ雅弘監督した次郎長三国志 第二部 次郎長初旅』と重なっている。『ハワイの夜』の編集マキノ・プロダクション以来宮本信太郎(1910年 - 没年不詳)であり、『次郎長三国志』の照明同じく西川鶴三であった1954年昭和29年3月17日公開された『春色お伝の方 江戸城炎上』(監督阿部豊撮影三村明)を最後に東宝退社撮影所新設して製作再開する日活移籍した

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