東宝争議から新東宝へ
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戦後、藤林の第1作は、終戦の年の11月22日に公開された榎本健一と轟夕起子の主演映画『歌へ!太陽』(監督阿部豊)であった。同作では松竹蒲田撮影所出身の撮影技師・小原譲治(1905年 - 没年不詳)と組み、以降、新東宝時代までともに多くの作品で組むことになる。翌1946年(昭和21年)には、同年3月28日公開の『浦島太郎の後裔』(監督成瀬巳喜男、撮影山崎一雄)、同年7月4日公開の『僕の父さん』(監督阿部豊、撮影小原譲治)を手がけるが、同年10月に「第二次東宝争議」が起き、同年11月には大河内伝次郎、長谷川一夫、山田五十鈴ら10人の俳優が「十人の旗の会」を結成して日本映画演劇労働組合(日映演)東宝支部を脱退、渡辺邦男が中心となって結成した第三組合である「東宝撮影所従業員組合」に参加、藤林らスタッフもこれに参加している。1947年(昭和22年)初頭、同従組を主体に東宝第二撮影所(のちの国際放映撮影所、現在の東京メディアシティ)で新東宝映画製作所が結成され、藤林は、第1作『東宝千一夜』(構成中村福、撮影三村明)に「照明」としてクレジットされた。同作は同年2月25日、東宝が配給して公開され、以降、本来の東宝撮影所では「東宝争議」が激化していくが、東宝の配給作品は新東宝が製作・供給することになり、藤林は同社で大河内伝次郎が主演する『大江戸の鬼』(監督萩原遼、撮影安本淳・岩佐一泉)に取り組むことになる。撮影技師の西本正(1921年 - 1997年)によれば、撮影助手に来ないかと西本を新東宝映画製作所へ誘ったのが藤林であるといい、西本は藤林の名をマキノから聞いて知っていたといい、同作で西本はサード助手を務めた。 新東宝は、1948年(昭和23年)4月25日に株式会社新東宝として設立、佐生正三郎が社長に就任、ひきつづき東宝の配給に提供する作品を製作しつづけるが、「東宝争議」は同年10月18日に終結し、東宝撮影所の製作機能が正常に戻っていく。藤林が手がけ、1950年(昭和25年)4月2日に公開された『妻と女記者』(監督千葉泰樹、撮影小原譲治)を最後に同社は東宝との配給提携を解消し、自主配給に切り替わる。この時期に藤林は、松竹大船撮影所の小津安二郎が監督した『宗方姉妹』(撮影小原譲治、1950年8月25日公開)、松竹下加茂撮影所を辞して大映に移る間の時期の溝口健二が監督した『雪夫人絵図』(撮影小原譲治、同年10月21日公開)や『西鶴一代女』(撮影平野好美、1952年4月17日公開)、あるいは『戦艦大和』(監督阿部豊、1953年6月15日公開)といった文芸作品を手がけた。 1953年(昭和28年)1月8日公開の『ハワイの夜』は、マキノ雅弘の監督作であり、撮影は三村明、照明は藤林が手がけた作品だが、この公開日が、東宝でマキノ雅弘が監督した『次郎長三国志 第二部 次郎長初旅』と重なっている。『ハワイの夜』の編集はマキノ・プロダクション以来の宮本信太郎(1910年 - 没年不詳)であり、『次郎長三国志』の照明は同じく西川鶴三であった。1954年(昭和29年)3月17日に公開された『春色お伝の方 江戸城炎上』(監督阿部豊、撮影三村明)を最後に東宝を退社、撮影所を新設して製作再開する日活に移籍した。
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