近世・近現代の躑躅ヶ崎館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 08:36 UTC 版)
「躑躅ヶ崎館」の記事における「近世・近現代の躑躅ヶ崎館」の解説
武田氏滅亡後、河内領を除く甲斐一国・信濃諏訪郡を統治した織田家臣の河尻秀隆は躑躅ヶ崎で政務をとったとされるが、異説として岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としたとする説がある。同年6月に本能寺の変が勃発し、秀隆はその後の混乱の中落命する。その後に入府した徳川家康によって改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれた。1590年(天正18年)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城されるや、その機能を廃されるに至った。以降、甲府は甲府城を中心とした広域城下町として発展した。 1705年(宝永2年)に甲府に入封した柳沢吉保は、それまで「古城」と呼ばれていた躑躅ヶ崎館跡を「御館跡」と呼ぶよう甲府市中に発した。吉保は自らを甲斐源氏の後裔と位置付けており、父祖とされるものの権威の正当な顕彰を意味する。 2019年は永正19年(1519年)から500周年にあたるため、甲府市では「こうふ開府500年」として記念事業を企画している。
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