近世・近代の治水とは? わかりやすく解説

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近世・近代の治水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 15:59 UTC 版)

阿賀野川」の記事における「近世・近代の治水」の解説

新潟平野阿賀野川信濃川上流から土砂運搬することで形成され堆積平野である。まず河口周辺中心とする砂浜洪水時に発生する多量土砂形成されその後徐々に平野全体形成されていった。しかし、平野形成される過程で、元々の流路残ったくぼ地や、土砂流入少なかった地域湖沼群が残ったこのため阿賀野川周辺には紫雲寺潟福島潟・島見前潟などの湖沼形成された上に、周囲低地のままで湿地帯となっていった。これに加え阿賀野川現在の阿賀野市早出川合流点から同市および新潟市秋葉区江南区北区東区にかけて複雑な蛇行繰り返し河道洪水によって頻繁に変化したため新田開発ままならない状態であった1598年慶長3年上杉景勝会津移封によって新発田城(現・新発田市)には溝口秀勝が入封し、以後溝口氏が61千石をもって代々領有した代々藩主新田開発積極的に実施していったが、これを円滑に進めるための治水事業推進した領内では新井郷川加治川が潟を伴い阿賀野川合流しており、その阿賀野川信濃川河口付近合流していた。このため阿賀野川流域方々内水溜まっており「悪水」としてその排除新田開発には必要不可欠であった新発田藩6代藩主溝口直治は藩財政回復させるべく新田開発推奨したが、その阻害要因となる阿賀野川流域流路修正内水排除計画した。まず1721年享保6年)に紫雲寺潟内水排除するため落堀川開削して紫雲寺潟干拓図り1730年享保15年)には信濃川合流していた阿賀野川河道日本海直接流出させるべく、松ヶ崎新潟市東区下山北区松浜付近地点において捷水路開削した(松ヶ崎掘割)。この捷水路は翌1731年享保16年)春の融雪洪水での決壊拡張され、これによって阿賀野川日本海直接注ぎ旧流路は「通船川となったが、この「松ヶ崎開削」によって大野新田相馬新田俵橋新田大中島新田開発成功し一定の成果収めた1732年享保17年)に藩主第7代溝口直温代わる阿賀野川流路修正継続された。同年から松ヶ崎直上流部・津島屋新潟市東区津島屋付近)の阿賀野川蛇行部を直線化する津島屋出州掘割開削」に着手11年後1743年寛保2年)に完成して阿賀野川最下流部は直線化した1734年享保19年)には阿賀野川信濃川連絡する小阿賀野川改修して新田整備実施。さらに第8代藩主溝口直養1773年安永2年)に阿賀野川旧流路である通船川改修し流路整備実施した。こうして新発田藩阿賀野川治水通じて新田開発行い財政建て直し図ろうとした。だが、一部では成果があったものの根本的な解決には至らず逆に第9代藩主溝口直侯の代、1789年寛政元年)には精魂込めて開墾した蒲原郡2万石が陸奥信夫郡田村郡楢葉郡の三郡に分散して高直しをさせられたため、財政はさらに逼迫して行った一方上流部会津盆地においても阿賀野川流路絶え変動していた。1419年には宮川鶴沼川若郷湖上流合流する鶴沼川とは異なる)が阿賀野川本流であったが、1536年には現在の流になっていたと推定されている。1611年慶長16年)、会津盆地慶長会津地震襲い阿賀野川中流狭窄部が地震による山崩れ河水堰き止められて「山崎湖」と呼ばれる堰止湖形成された。会津藩であった蒲生秀行直ち山崎湖の排水事業実施した容易に排水できず、以後蒲生忠郷加藤嘉明加藤明成といった代々会津藩主が排水事業継承し加藤明成会津騒動改易となったあとに入封した保科正之三代将軍徳川家光実弟)の代になって漸く排水成功した近代1924年大正13年)から1935年昭和10年)、及び戦争等による中断期間を経て2005年平成17年)から2006年平成18年))においても只見川合流近辺阿賀川下流蛇行狭窄部(右画像)の開削により治水安全度向上した

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近世・近代の治水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:32 UTC 版)

大井川」の記事における「近世・近代の治水」の解説

1590年天正18年)、駿河遠江三河甲斐信濃五ヶ国を領有していた徳川家康小田原征伐の後、北条氏旧領であった関東への移封豊臣秀吉より命令された。この後駿河には中村一氏17万石駿府城主として遠江には堀尾吉晴浜松12万石山内一豊掛川6万石として領有するなど秀吉恩顧大名封じられた。これは家康仮想敵とした秀吉による東海道封じ込め政策一環であった同年中村一氏山内一豊らにより牛尾山東側掘削し当時牛尾山の西側流れていた大井川流路東側変更する天正瀬替えが行われている。 1600年慶長5年関ヶ原の戦いにおいて東海道筋の大名秀吉思惑反し揃って東軍徳川方付いたため、戦後、一豊が土佐へ加増転封したのを始め、堀尾・中等の諸大名西日本転封となったその後東海道筋は天領親藩譜代大名固められ江戸防衛当てられた。この際大井川に関しても、江戸防衛加え家康隠居であった駿府城防衛役目を果たすため、架橋はおろか渡し船厳禁とされ、大名庶民問わず大井川渡河する際には川札を買い、馬や人足利用して輿や肩車渡河した川越かわごしが行われた。このため大井川東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越され大井川」と詠われた。もちろん、これは難所大井川を渡る苦労表現した言葉である。 なお、従来幕府架橋渡船禁じたのは、大井川外堀として江戸を守る防衛上の理由主だとされていたが、近年の研究では、昔の大井川水量多く流れ急だったため、架橋には向かなかった、川越による川会所宿場町莫大な利益を守るためであった、とも言われている。 1696年元禄9年)、幕府は川の両側川会所設け渡渉制度管理のために2名から4名の川庄屋置いた川会所島田と金谷に設置されそれぞれ大井川渡河する拠点宿場町となり賑わった。川会所江戸道中奉行直轄として、毎日川の深さ計測して江戸飛脚報告したほか、川越賃銭渡河順番割り振り運営あたったとりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深尺五寸(1.5 m)、人足の肩を超える全面的に渡河禁止となった川越人夫島田350人、金谷350人が常時いた。大井川川越人夫雲助とは違い藩府直参下級官吏であったため、安定した職業でもあった。 大井川治水については、信玄堤代表される武田氏の「甲州流治水工法」のひとつである牛枠類(「聖牛」の名で呼ばれる)が知られており、これ以外にも、「出し」・「川倉」といった水制各所設けられた。ただしそれでも水害は後を絶たず、大井川下流流域住民舟形屋敷盛土して洪水対処する舟形屋敷」を建築した。現在でも焼津市大井川藤枝市島田市などに舟形屋敷残存している。 明治時代に入ると架橋許され各所けられるようになったそのうち特に著名なのが蓬萊橋である。この1879年明治12年)に架橋され、木造歩道橋としては世界一長さ誇りギネス世界記録にも認定されている。1898年明治31年)に「河川施工規則」が施行される大井川内務省による直轄工事対象河川になった同年より高水敷治水整備内務省直轄事業として行われ1902年明治35年)には一応の完成見た

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