近世・近代の治水
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新潟平野は阿賀野川や信濃川が上流から土砂を運搬することで形成された堆積平野である。まず河口周辺を中心とする砂浜が洪水時に発生する多量の土砂で形成され、その後徐々に平野全体が形成されていった。しかし、平野が形成される過程で、元々の流路に残ったくぼ地や、土砂流入が少なかった地域で湖沼群が残った。このため、阿賀野川周辺には紫雲寺潟・福島潟・島見前潟などの湖沼が形成された上に、周囲は低地のままで湿地帯となっていった。これに加え阿賀野川は現在の阿賀野市の早出川合流点から同市および新潟市秋葉区・江南区・北区・東区にかけて複雑な蛇行を繰り返し、河道は洪水によって頻繁に変化したため新田開発もままならない状態であった。 1598年(慶長3年)上杉景勝の会津移封によって新発田城(現・新発田市)には溝口秀勝が入封し、以後溝口氏が6万1千石をもって代々領有した。代々の藩主は新田開発を積極的に実施していったが、これを円滑に進めるための治水事業も推進した。領内では新井郷川と加治川が潟を伴い阿賀野川へ合流しており、その阿賀野川は信濃川の河口付近へ合流していた。このため阿賀野川流域は方々に内水が溜まっており「悪水」としてその排除が新田開発には必要不可欠であった。 新発田藩第6代藩主・溝口直治は藩財政を回復させるべく新田開発を推奨したが、その阻害要因となる阿賀野川流域の流路修正と内水排除を計画した。まず1721年(享保6年)に紫雲寺潟の内水を排除するため落堀川を開削して紫雲寺潟の干拓を図り、1730年(享保15年)には信濃川に合流していた阿賀野川の河道を日本海へ直接流出させるべく、松ヶ崎(新潟市東区下山・北区松浜付近)地点において捷水路を開削した(松ヶ崎掘割)。この捷水路は翌1731年(享保16年)春の融雪洪水での決壊で拡張され、これによって阿賀野川は日本海へ直接注ぎ、旧流路は「通船川」となったが、この「松ヶ崎開削」によって大野新田・相馬新田・俵橋新田・大中島新田の開発が成功し、一定の成果を収めた。 1732年(享保17年)に藩主が第7代溝口直温に代わるも阿賀野川の流路修正は継続された。同年から松ヶ崎の直上流部・津島屋(新潟市東区津島屋付近)の阿賀野川蛇行部を直線化する「津島屋出州掘割開削」に着手、11年後の1743年(寛保2年)に完成して阿賀野川最下流部は直線化した。1734年(享保19年)には阿賀野川と信濃川を連絡する小阿賀野川を改修して新田整備を実施。さらに第8代藩主・溝口直養は1773年(安永2年)に阿賀野川の旧流路である通船川を改修し、流路の整備を実施した。こうして新発田藩は阿賀野川の治水を通じて新田開発を行い、財政建て直しを図ろうとした。だが、一部では成果があったものの根本的な解決には至らず、逆に第9代藩主溝口直侯の代、1789年(寛政元年)には精魂込めて開墾した蒲原郡2万石が陸奥信夫郡・田村郡・楢葉郡の三郡に分散して高直しをさせられたため、財政はさらに逼迫して行った。 一方、上流部の会津盆地においても阿賀野川の流路は絶えず変動していた。1419年には宮川(鶴沼川。若郷湖上流で合流する鶴沼川とは異なる)が阿賀野川本流であったが、1536年には現在の流路になっていたと推定されている。1611年(慶長16年)、会津盆地を慶長会津地震が襲い、阿賀野川中流の狭窄部が地震による山崩れで河水が堰き止められて「山崎湖」と呼ばれる堰止湖が形成された。会津藩主であった蒲生秀行は直ちに山崎湖の排水事業を実施したが容易に排水できず、以後蒲生忠郷・加藤嘉明・加藤明成といった代々の会津藩主が排水事業を継承し、加藤明成が会津騒動で改易となったあとに入封した保科正之(三代将軍・徳川家光の実弟)の代になって漸く排水に成功した。 近代(1924年(大正13年)から1935年(昭和10年)、及び戦争等による中断期間を経て2005年(平成17年)から2006年(平成18年))においても只見川合流部近辺の阿賀川下流蛇行狭窄部(右画像)の開削により治水安全度が向上した。
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近世・近代の治水
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1590年(天正18年)、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国を領有していた徳川家康は小田原征伐の後、北条氏の旧領であった関東への移封を豊臣秀吉より命令された。この後、駿河には中村一氏が17万石の駿府城主として、遠江には堀尾吉晴が浜松12万石、山内一豊が掛川6万石として領有するなど秀吉恩顧の大名が封じられた。これは家康を仮想敵とした秀吉による東海道封じ込め政策の一環であった。同年、中村一氏、山内一豊らにより牛尾山の東側を掘削し、当時牛尾山の西側を流れていた大井川の流路を東側へ変更する天正の瀬替えが行われている。 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて東海道筋の大名は秀吉の思惑に反し揃って東軍・徳川方に付いたため、戦後、一豊が土佐へ加増転封したのを始め、堀尾・中村等の諸大名は西日本へ転封となった。その後東海道筋は天領・親藩・譜代大名で固められ江戸の防衛に当てられた。この際、大井川に関しても、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の防衛の役目を果たすため、架橋はおろか渡し船も厳禁とされ、大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には川札を買い、馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた。もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。 なお、従来、幕府が架橋や渡船を禁じたのは、大井川を外堀として江戸を守る防衛上の理由が主だとされていたが、近年の研究では、昔の大井川は水量が多く流れも急だったため、架橋には向かなかった、川越による川会所や宿場町の莫大な利益を守るためであった、とも言われている。 1696年(元禄9年)、幕府は川の両側に川会所を設け、渡渉制度の管理のために2名から4名の川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となり賑わった。川会所は江戸の道中奉行の直轄として、毎日川の深さを計測して江戸に飛脚で報告したほか、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。とりわけ洪水の際には川留めが行われた。水深四尺五寸(1.5 m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止となった。川越人夫は島田に350人、金谷に350人が常時いた。大井川の川越人夫は雲助とは違い、藩府直参の下級官吏であったため、安定した職業でもあった。 大井川の治水については、信玄堤に代表される武田氏の「甲州流治水工法」のひとつである牛枠類(「聖牛」の名で呼ばれる)が知られており、これ以外にも、「出し」・「川倉」といった水制が各所で設けられた。ただしそれでも水害は後を絶たず、大井川下流の流域住民は舟形に屋敷を盛土して洪水に対処する「舟形屋敷」を建築した。現在でも焼津市大井川や藤枝市、島田市などに舟形屋敷が残存している。 明治時代に入ると架橋が許され各所に橋が架けられるようになった。そのうち特に著名なのが蓬萊橋である。この橋は1879年(明治12年)に架橋され、木造歩道橋としては世界一の長さを誇り、ギネス世界記録にも認定されている。1898年(明治31年)に「河川施工規則」が施行されると大井川は内務省による直轄工事対象の河川になった。同年より高水敷の治水整備が内務省直轄事業として行われ、1902年(明治35年)には一応の完成を見た。
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